ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

菊田洋之『プラスわんっ! 1』ビッグコミックス

▼菊田洋之『プラスわんっ! 1 :愛犬しつけ教室小学館ビッグコミックス
▽2007年12月5日初版。小学館刊。第1話〜第8話収録。初出:「ビッグコミックオリジナル」2006年第24号、2007年第3号、13号、14号、増刊号2006年11月号〜2007年7月号。荒井隆嘉(DOGLY)、監修。連載担当、杉中実。リサーチ、森竹浩子。

▽読める。犬のしつけに関する知識と、人情話をからめる連作集。よくできている、のだろう。けして間違ってはいない。だが、すぐれてはいない。(個人的な趣味でいえば、その「ドラマ」性が、むしろ嫌悪の対象となるだろう。)
▽ドッグトレーナーA級ライセンスを持つ家出娘、泉名結子。客のプライベートに踏み込み、それが結果として幸福を呼ぶ展開。拭いがたい傲慢。もちろん、それを牽制する上司(靖代)の言葉を弁証した上での展開にはなっているにしても(cf.p.40)。
▽SY君より拝借。
▽ヒロインである結子の「おせっかい」。それが結局のところ望ましいこととして描かれ、読者がそれを受け入れるのは、今やすでに失われた共同体への郷愁ゆえか。


▽第2話「しつけの本質」。動物を躾けることの意味について。群れを形成するために厳格なルールに縛られるオオカミ。人間によって品種改良を重ねられ、人間社会で生きていくことを前提として生を受けるイヌ。「伏せ」や「待て」の命令に、許可あるまでその体勢を持する愛犬ハル、その姿に飼い主の押しつけを感じ、そんな躾が本当にハルの幸せなのかどうかわからない…と洩らす登場人物に対し、主人公結子はやさしくこう語りかける――「犬はしつけを人間のエゴだなんて思ってませんよ。」「私達が行う「しつけ」は、犬と人間が「人間社会」という、一つの「群れ」の中で平和に共存していくための「ルール」を教える事だと思ってます。/そしてそれは最終的には犬達を守り、私達の掛け替えのないパートナーとして、その社会的地位の向上に繋がるんだと。」(p.51)


▽この答えはまったく正しい。これ以外に答えはない。
▽そして同時にこの犬への愛にあふれた言説は、人間がその本質的なエゴイズムをいかに糊塗してみせるかをよく示しているだろう。まさに同じ論理によって人間は奴隷制や人種差別を肯定してきたのだから(結子の言葉は、奴隷制のもとで「良心的」であった人びとの言説にいかに似通うことか)。そしてまた、絶対主義時代を克服した近代的権力は、まさにこう語られる状態を理想状態として希求してきたとも言えるのだろう。躾けられる側の幸福としての躾け、躾けられる側の要求としての躾け。被作用者の意志として正統化される権力(今や私たちは他人の力で奴隷にされることはない。私たちは「自ら望んで」奴隷になるのだ)。
▽「犬はしつけを人間のエゴだなんて思ってませんよ」、この代弁が事実であるとすれば(おそらく事実だろう)、私たちはそこに隠蔽された残酷さに戦慄しないだろうか?
▽彼らはしつけを望んでいる、のだ。彼らはその出生において常に既にコントロールされているのであり(品種改良)、彼らに根元的な意味での意志は存在しえない。人間は彼らに自由への意志を与えていない。にもかかわらず、人間は彼らを奴隷とは呼ばず、「私達の掛け替えのないパートナー」と呼ぶのだ。それをやさしげに、「人間的に」語らざるをえない、この「ハートフルな動物漫画」に慄然としないだろうか。いや、それとも結子はこの語りを通して、犬をめぐるその悲劇性を、そうでしかありえない人間のエゴイズムの業と世界の被投性の哀しみをじっと見つめているのだろうか?


▽私たちは他の言葉をもたない。結子のように語るほかない。露悪的に語ることもできようが、畢竟それも自己欺瞞にすぎない。
▽前提: ヒトとイヌは異なる。人間が(同属たる)人間をどう扱うかと、人間以外をどう扱うかは別に考えられるべきことだ。権利: 人間の人間に対する、人間のイヌに対する。生物学的思考に基づくカテゴライズ。だが、「人間」なるものが歴史的なものであるなら、ヒトとイヌの切断線もまた可変的なものではないのか。また、イヌに対する態度を焦点化しうるなら、人間の人間に対する態度もまた同様に焦点化しうるのではないのか。人間とイヌの間に発見される差違の根拠如何。


トーベ・ヤンソン『誠実な詐欺師』におけるカトリと犬。付き従えてきた犬に襲われるカトリ。
「打撃に音はない。カトリは自分に跳びかかる犬の殺意に野生を感じ、後ずさりをして灯台の壁を背にして、両腕で顔を覆った。すばらしい跳躍だ。これまで究極の力を使いきることがゆるされなかった巨大な獣にふさわしい。一瞬、カトリの喉に犬の熱い息がかかる。犬が重い身体をのけぞらせ、爪で壁のセメントをひっかいた。カトリと犬は身動きもせず、みつめあう。どちらの眼も黄色だ。しまいに犬は両耳を後ろに寝かせ、尻尾をさげる。そのうちぷいと向きを変えると、東のほうへ走りさっていった。村から遠く離れて。」(p.185)
「カトリが戻ってきたとき、マッツは裏庭で薪を積みあげていた。「なにがあったの?」/「べつに」/「だれがコートを破いたのさ?」「犬よ。でも失敗した。なんでもない」/ マッツが近づいてきた。「いつもいうよね。なんでもないって。犬となにがあったの?」/「逃げていった」/「まずいな。もう二度と戻ってこないよ。野生になってしまう。生きていけないよ。なのに、なんでもないっていうのかい?」/「ほっといて」とカトリがいう。「わたしにどうしろっていうのよ」/「気にかけてやって!」とマッツは叫んだ。「ちっとは気にかけてやってよ! 姉さんの犬じゃないか。姉さんはみんなを怖がらせるんだ」/「マッツ。くり返しいわないで。アンナといっしょにいすぎたのね。気をつけて、彼女はあなたのためにならない」。カトリはもはや言葉を抑えられず、愛する弟にいいつのる。「なんなの! なにをいいたいのよ! わたしが努力してこなかったとでも? 実のある協定をかわし、守ってやろうとした。なにも頼るものがなく、右も左もわからなかったあの犬に、そうよ、途方に暮れたあの犬に! 安心させてやった、命令を与えることで。いったい、なんなのよ。犬をつれて村を歩くわたしの姿をみなかったの? 誇り高く、ただひとつの存在のようにぴたりとよりそってね。犬は悠然と王のように誇りたかくて! わたしたちが通りすぎると、だれもが黙った。わたしたちは互いを信頼し、窮地にある相手を見棄てはしなかった。わたしたちはひとつだった、ひとつの存在だった。そしてわたしが期待していたのは……」/「なにを?」/「わからない。あなたたちがわたしを信じ、頼ってくれることだったのかも。薪を積みあげたら覆っておいて。そこの物置の裏にあるトタン板でね」/ 勝手口でカトリはコートを丸め、アエメリン一家が冬の長靴をしまう戸棚のいちばん奥に突っこんだ。」(p.185-186)
▽書き抜いてみるに、やはり傑作というほかない筆致。削り込まれた文章の美。冨原眞弓訳、ちくま文庫版。