ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

「ゼロ年代批評night」@阿佐ヶ谷ロフトA〔2009.2.25〕

東浩紀の愉快な仲間たちpresents「ゼロ年代批評night」
▽2009年2月25日(水)。阿佐ヶ谷ロフトA。18:30開場、19:30開始。
▽出演(5人): 坂上秋成ゼロアカ道場第四次関門通過者/道場破り)。筑井真奈(編集者/ゼロアカ道場第四次関門通過者)藤田直哉(SF評論家/ゼロアカ道場第三次関門通過者)。三ツ野陽介東京大学大学院生/ゼロアカ道場第四次関通過者)やずややずやゼロアカ道場第四次関門通過者)
▽紹介文: 「次世代の批評は俺たちが作る!まったく新しい批評の形を模索する、熱き批評魂を持った若者たちが、批評の未来についてガチバトルを繰り広げます!ザクティ革命の真の意義とは!?ゼロ年代批評の申し子となるのは誰か?批評論壇の新生を目撃するために、次世代の批評家(とウォッチャー)たちよ、阿佐ヶ谷ロフトに集結せよ! ※来場者全員に、会場限定のスペシャル同人誌をプレゼント。」
▽会場限定同人誌(コピー誌)を配布。〔追記: のちMY氏に進呈。〕


▽若い批評家志望者のトークバトルと聞き、期待して足を運んだ。全体としてお行儀よくまとまっていた、とは言えるのだろう。
▽第一部の中途で隣席の方に「これ、見てて面白いですか?」と聞いてみると、「ええ」と即答される。もしかすると面白かったのかもしれない。
▽総じて喧嘩しない進行。批評することを恐れている感触。登壇者5人が、批評者としての立場を異にしているのは疑いない。にも関わらず、その裂け目を批評しようとしない。総体としてのイベントが《批評》を体現するような瞬間は到来しない。場に《批評》は顕現しない。クレバーな司会者がいないのが駄目なのか。
▽キャラ立ちの不足。


▽登壇者。
やずややずや。登壇者中では唯一、他とは違う場所から、自分の目で、ものを見ている。自分の言葉で自らのアルス・コンビナトリアを語り――それはMAD映像的なものだと彼はいう――、かつ自己の方法を真摯に反省し、疑問を抱いているのが感じられる。自己の方法に歴史性が欠けていること。MAD的方法とはそのためにやむをえず採られた手段にすぎないのではないか? そうした反省意識を、人文系の教養に支えられた他の面子へのコンプレクス(やずやは工学系?出身。アリの研究をしていたという)と捉えることもできるが、舞台上の肉体としてのやずやのたたずまいを見るかぎり、そういったものから自由であるように見えた。やわらかな知性。コンセプト(概念)デザイナーとしての批評家。
藤田直哉トリックスターとして頑張るが、エンターテイナーとしてはまだまだ力不足。仕事で顔を出せなかったMY氏曰く、「あの中では藤田さんが一番“興行”がわかってそうだったけど」。たしかに。だが、藤田一人で1,500円の舞台はもたない。トークのプロでもなし。無責任な自分自身を試薬として、自分の発言との距離で登壇者全員をマッピングしてみせられれば批評的だろうに、一人で完結して空回りしている。議論は喚起できず、展開されず、そこで止まってしまう。時に他者のコメントを要約してみせ、交通整理の役に立っているかのようにみせようとしてはいるが。なお、折にふれ「俺は実はわかってるんだヨ」といった調子で現代思想的なジャーゴンを差し挟むのは痛々しい。エンターテイナーにそんな自意識の発露はいらない。芸術としての批評。
▽こと喋り方に関しては、三ツ野陽介のそれが落ち着いていて好感。書くものを読んでみたい。結論を語らず、状況の困難や疑問のみを語り、その前に立ちつくす自己を提示することで逃げ切ろうとする。が、限られた時間のうちで客の目を惹くパフォーマンスには、まだ練り上げられていない。おそらく三ツ野を攻め立て、彼の躊躇の由来を問いつめることができれば、このイベントは批評の困難に対する一個の批評たりえただろう。書評と批評の差違。全体性を断念するとしても前衛性は捉えうる、と三ツ野は信じる。
坂上秋成は司会役の一人。おそろしく若々しく、ほとんど絶滅危惧種的な文学青年ぶりが悪くない。ブログの隆盛に見られるように日本は“一億総表現者時代”にある。しかし、そこにあふれるのは拙劣な批評、あるいは批評とは呼びたくないような何かにすぎない。坂上は批評の価値を信じる。ブログ的世界にあふれかえる言説から質を異にしたすぐれた批評を生み出せるはずだ、という。ヌーヴォーロマン、蓮實重彦、「早稲田文学」。若さ。
▽もう一人の司会役にして、壇上唯一の女性だったのが筑井真奈。批評に対する立ち位置、態度はおそらく私に近く、だからつまらない。本業は、エロゲー情報誌の編集者という。自らの実存への明示的依拠。療法としての批評。自我意識、セクシュアリティ


▽三ツ野、やずや の生みだす文章は一度読んでみたいと思わせられた。坂上の書く文章も――これはなま暖かい視線込みで――読んでみたい。
▽反歴史派{やずや、藤田}、歴史派{三ツ野}、中間派{坂上}、実存派{筑井}。 倫理派{やずや、三ツ野}、一発芸派{坂上、藤田}。 保守派{三ツ野、坂上}。


▽刺激的な発言、新しいと思わせる発言、あっと思うような発言はほぼ無い。どこかで聞いたような話を、新しいことを語っているかの如く反復し、その反復性に目をつぶっている。まとう意匠が変わっただけのこと。彼らはそれを本気でやっているのか、批判対象とならぬための安全策をとっているのか。
▽そこまでは誰でもたどりつく。その先で何を言うか、何を実践するか、そこに批評者のセンスが賭けられているような場所がある。彼らはその先を語ろうとしない。これまで嫌というほど多くの人びとがたどりついた場所で、そこが新天地であるかのようにはしゃぎまわっている。
▽たとえば批評の大衆化といい、強度といい、歴史性といい、全体性といい、文脈への位置づけといい、純文学の失墜といい、メタ化といい、自我の同一性という。すべてはその先で何を言うかにかかっているのであって、そうした問題系それ自体は、私たちの《条件》にすぎない。
▽前提条件としてのポストモダン。それがすでに救いがたく陳腐で、何の創見ももたらさぬ「当然の認識」に過ぎなくなっていること。保守性の徴に成り下がったポストモダニズム。そのことへの気づきこそ要請されているのではないのか。それがこの時代の批評に課された困難ではないのか。


▽第一部はゼロアカ舞台裏的な内輪話。退屈。ゼロアカを知る/知らぬの問題ではなく、パフォーマンスとして、レベルが低い。藤田の言葉を使えば、クオリティが低い。これでお金をとれる話をしているつもりだとしたら致命的。
▽第一部終了時に、藤田が出演したという「おやすみアンモナイト 貧乏人抹殺編/貧乏人逆襲編」増田俊樹監督作品)の出演女優(大塚麻恵)と監督がゲストとして登壇。「藤田さんは俳優なんだと思い込んでました、批評家だったんですか。びっくりした! この同人誌の自己紹介文、なぜ平仮名で書かれたんですか?」。5人のゼロアカ生の隣りに突如現れたこの女優の存在それ自体こそ、(その服装、立ち居振る舞い含め)異物として、このイベントでもっとも《批評的》だった。目眩がするほどに。それは若手批評家(を目指す若者?)たちの集まりとして情けなくはないか。


▽現代の批評における歴史性(歴史的バックグラウンド)の欠損と、それを回復すべきか否か。伝統の消失。欧米批評の権威衰退。進歩史観の無力化。全体性の不可能性への認識。
▽全体性。全体を捉えることの不可能性。文脈の不在。三ツ野は、批評が全体を領略することが不可能だとしても、前衛を捉える(見返す)ことは可能ではないか? という。ロマンティシズム。それすら不可能だとしたら、批評に何の意味があるというのか、その情動。
googleが示す全体性への意志。だが、googleは文脈を作り出せない。――本当か? 文脈を成立させる寸前の状況をつねに更新しつづけること。googleはあらゆる情報をフラットに並べる。そこでは手術台の上のミシンと蝙蝠傘の出会いがつねに起きている。ただそれを自ら語りださないだけのことだ。


▽歴史性に拠る批評に対して提示される、批評のMAD的方法。ブリコラージュとしての批評。そこでは批評対象は“無根拠に”選択されるという。
▽批評対象を選ぶ基準を、藤田は自分の「直感」だという。感性の芸術家としての批評家、とでも言いたいのか。審美眼への臆面もない信頼。印象批評。無根拠に――「私」の“感性”にのみ依拠して――対象を選択し、言葉を連ねること、すなわち徹底的に個人に依拠した言説。それこそ批評家の権威を生み出す当のものではないか。それは批評家の直感である以上、模倣できない。それは《理論》や《方法》ではない。すなわち唯一無二のものである。ゆえにその批評家は絶対的である。小林秀雄の断言(の魔力)を見よ。〔追記:この段落、疑問あり。〕
▽批評者の「直感」を構成している無意識こそが問われねばならない。直感の歴史性が。それは無根拠なのではなく、批評者の個人史にすぎない(そして個人史とはつねに凡庸なものである)。全体性が断念されたときにあらわれる、典型的な紋切り型。
▽あるいは直感を構成する《環境》。藤田直哉は「あなたの直感だって市場によって構成されたにすぎないのではないか?」という野次に「私の直感や評価が市場のそれとずれることはあります。私はそれを信じます」と答える。市場と評価軸の相互嵌入は“ニワトリとタマゴ”を問うような設問であって無効だろうが(しかし同時に、そうした問いに答えるに、ズレをもって市場の選好と自己の直感の独立の根拠としてしまえる藤田のナイーヴさ如何)、そこで問われているのは、歴史が終わったから個人の決断主義に立つ、パラノではなくスキゾで行きましょう、そんな手垢のついたパタンを幸福になぞっていていいのか、であろう。


坂上秋成は、一見繋がらないものを繋げて見せることに批評の快楽が宿るのだと熱弁をふるう。純文学の高尚さに安住せず、その外にあるエロゲやライトノベルも同様に語る危険な批評を。たとえば、田中ロミオと間宮緑と舞城王太郎を結んでみよ、と。
▽手術台の上のミシンと蝙蝠傘ロートレアモン。デペイズマン。異化効果。――たとえばそれは高山宏の方法ではないのか。彼がいちおうは表象史というアカデミズムにあって実践してみせたことを、ジャーナリスティックに展開する、あるいは世俗化するだけのことではないか。いや、ならばそれは荒俣宏である(実際には荒俣は高山に先行したし、そもそも高山も世俗派と言うべきかもしれないが)。あるいはそうした知性を、松岡正剛なら《編集》と呼ぶだろう。では、坂上は荒俣を見事な批評家、理想的な批評家と呼ぶのか。おそらく呼ぶまい。そこに潜む権威主義
坂上は会場同人誌に書く――「安全なところで安全な文章を書くことをね、批評とは呼びたくないよね」。問題は、坂上が書こうとしているようなものは、危険でもなんでもないという現実だろう。彼がそこに立ちはだかってほしいと期待しているような危険など、そこには存在しない。なぜ坂上にそこに危険を見てしまうかといえば、彼の前にたとえば「論壇」的なもの、すなわち権威が物象化してしまっているからだろう。反権力が権力の裏返しに過ぎぬこと、反権威主義権威主義に依存していることなど、今さら指摘するまでもない。


▽会場からの発言。ゼロアカ最終関門を突破すれば、1万部の本を講談社BOXから発行できる。なぜブログではなく、紙媒体で出す必要があるのか。皆さんは、その本で私たち読者に何をさせたいのか?
坂上は、影響を与えたいという。やずやは、そこからコミュニケーションが生まれたら嬉しい(クリエイティブ・コモンズ)、という。藤田は、何もさせたいとは思わない、勝手にすればよい、という。筑井は、読者が自分で批評をつむぐ刺激になれたらいい、といったことを言う(これは記憶が曖昧)。
▽影響を与えたいとは、権力が欲しいということか? 坂上は、それも少しはある、2割くらいは、という。三ツ野は、ではあなたは影響力/権力が欲しくないのですか? と問い返す。権力と権威。影響力を権威が担保するとすれば、批評家の卵は、権威が欲しいのではないのか。批評の権威性を否定せねばならぬと言いながら、読み手に影響を与えたいとは、何を求めているのか。「権力」と聞いて、即物的な権力を想定しているのか。


▽藤田曰く、面白ければそれでいい。――ならばエンターテイナーになればよいのであって、批評家になる必要性はない。
▽また、「面白い」に優劣が、より面白いものとより面白くないものが存在するなら、それを見定める批評が生じる(批評という言葉が嫌なら、鑑識とでも骨董屋とでも言えばよろしい)。優劣や意味が存在しないなら、批評は不要である。そして藤田は、クオリティはある、質の差は存在する、と言ってしまう。
▽藤田は、批評家という肩書きは「使える」からなりたいだけです、と言えばよいのだ。


▽文脈の中に位置づけること。
▽文脈をいかに見いだすか、共有するかが問題であり。その文脈の発見こそが、結果的に権威性を産む。マルクス主義階級闘争史観を発見/創作することで、権威となった。ポストモダニズムもまた同様に。
▽よく分からぬこと。第一部。三ツ野は、かつての批評がもった機能として「大きな文脈への位置づけ」を指摘する(ex.マルクス主義批評)。それを筑井が受けて、でもそういったイデオロギー批評に潜むイデオロギーへの無自覚はよくないと思う、と語る(そんなこと、三ツ野は百も承知だろうに)。そのあと、全体を見通すことはすでに出来ない、すべてのジャンルのあらゆる作品に目を通すことは不可能だ、といった批判や何やかやが続く。
▽その後、筑井真奈が学生時代の、刈間文俊(聴き取りづらかったがおそらく)との会話の記憶を語る。刈間はとにかく厖大な中国映画に目を通している、ひどくつまらない、クズのような中国映画まで見ている。なぜと問うたところ、彼は「見なければ中国の農民の現実は見えてこないよ」と答えたという。その時に筑井は何か感じるものがあった。刈間のしていることは、映画を社会的文脈に位置づけていると言えるだろう、と。
▽そこで、坂上が「いま筑井さんから「位置づけ」という重要なキーワードが出ていて…」と語る。どう考えても「位置づけ」を言い出したのは三ツ野だし、彼の示した過去にあった批評の型(むろん三ツ野はそれを“自分の理想”だとは言わない)に批判を加え、「全体性の認識はいまや不可能であり、文脈への位置づけは不可能だ、恣意的な選択しかありえない」と(安直に)言ったのが筑井、藤田、坂上の三人ではなかったのか。


▽断言からの逃走、あるいは。アンビギュイティを生きること。非決定に耐え、見つめつづけること。そうした態度は、それとして価値たりうる。三ツ野の戦略はそれだろう。だが、それはトークライヴのパフォーマンスとしては効率が悪い。
▽それでもなお。中途で、三ツ野が「批評空間」から「思想地図」への時代の変化を言い、「思想地図」を読んでも批評という感じがしない、と発言する。本人にしてみれば失言に類するものかもしれない。だが、このイベントでようやく飛び出したストレートな東浩紀批判――ということは旧世代の批評への批判でもあろう――と解釈しうる言葉。
▽「三ツ野さんは「思想地図」は批評ではないと言った。他の登壇者の方々はどうなの?」と野次。他の四名はまともに答えない/答えられない。個人ブログにあふれる感想や情報集積(ex.カトゆー家断絶)を批評とは呼べないとのたまう(坂上)ならば、何が現在、「批評」と呼ぶに値すると考えるのか、それを示さねばならぬ。その見定めもせずに批評の未来も何もない。そこには批評の現在すら、ないのだから。
▽三ツ野は「思想地図」は批評じゃない(断言を巧妙に避けようとがんばっていたが)と口にすることで切断線を引き、自己が欲する批評を否定的なかたち、ネガとしてであれ、示した。背水の陣に一歩近づいて見せた。だが、他の論者たちがそれをしないなら批評の未来以前に、そこに金のとれるようなスリルは生まれない。
「批評家の内面世界が多様であり豊富であればあるほど、その多角的な批評的照準が制約し合い、交錯し合い、中和し合い、批評の底力が押しかくされてしまう場合がある。中和されたものは、一本調子の単色よりも弱く見え、時には貧しくさえ見える。語るべきことを多く持たぬ場合、人は声高々としゃべる。内容の充溢は、かえって人をして訥弁ならしめる。」――三ツ野がこの言葉を捧げられるに値する書き手になることを祈る。


▽会場からの最後の質問。何やら壇上の論者たちの言葉に対する鬱憤の爆発した、とりとめのないコメントだったが、「自分たちが東浩紀の模倣や劣化コピーとして見られていることについてどう思うか」との質問として坂上が受ける。それを引き取って、最後のまとめコメント。
▽筑井真奈だけが、「私は東さんの批評だけに影響を受けているわけではない。ただ、東さんに大きな影響を受けているし、東さんの批評によって自分が抱えている違和感を言葉にしてもらったと思う。でも、東さんの言葉では表現できない違和感が私の中に確実にある、私はそれを自分で言葉にしたい」と、いわば“批評の未来”を語る。そんなのものはしょせん「筑井の批評」の未来だし、誰にでも言える優等生的言辞にすぎぬ。しかしそれでもなお、未来ではある。
▽他の登壇者は、模倣からスタートしていいと思っているとか、劣化コピーで何が悪いとか、オリジナリティは他人が決めることだとか言っている。呆れる。ならば君たちはいらない、東浩紀が一人いればよい。批評の未来も次世代の批評も少なくとも君たちとは無関係だよ、という話である。


▽歴史性。進歩史観。――実際問題、今ここで進歩主義を批判する態度のどこに批評性があろうか? むしろこの時代に進歩史観に立ってみせることのほうがよほど危険な、魅惑的な批評を生むのではないか。
▽人文知における師と弟子。歴史。そこには何かがあるのではないか(やずや)。
▽批評のメタ化。無限後退。批評家を批評する。――だが、メタ化の危機という表象自体が幻想にすぎない。それこそ坂上の言う、安全な場所からの安全な言葉であろう。藤田や筑井は、批評の状況ってホントにそんなにヤバいの? と言ってみせる。だが、そういう藤田や筑井の口振りもまた、何かひどくお約束の救いがたい紋切り型に見える。
▽ジャンル批評家とジャンルを問わぬ批評家の相違。――専門領域を持たぬ「批評家」の脆弱さをどう考えるか。むろん、ここでいう“専門領域”とは「得意ジャンル」といった軽薄なレベルの話ではない。
パラドックスから出発し、差異と反復によって駆動され生産される批評。対して、MAD的工学、職人的なものとして成立する批評。(やずや
▽批評の「強度」。強度がある/ない。第一部で批評への評価軸として何度か口にされたが、その内実について語られることはない。強度とは何か? 消費者ならともかく、批評家を目指す者がそれでよいのか。


▽コンセプト・デザイナーとしての批評家(やずや)。ドゥルーズ。概念を生みだすこと。タグ。産婆術としての批評。ニコニコ動画におけるタグつけ。くくられることが、新しい何かを生みだす。編み変え。批評家としての村上隆。だが、それは本当に「新しい何か」を生みだしているのか? テクスト論、受容論の可能性とうさんくささ。
▽評価することと批評の関係。批評と骨董の見定め。何が違うのか。書評と批評(三ツ野)。読み替えること。
▽詐欺と批評。歴史性を否定し、権威性を否定する。恣意性だけが残る。それは詐欺に近づくのではないか、という。
▽批評の主語。僕→私→われわれ。小林秀雄から江藤淳柄谷行人加藤典洋あたりまで「僕」として語っている、と三ツ野は言う。吉本隆明の詩もそうだ。
▽市場と批評。「市場」を絶対化して語ってみせる言説の通俗。
▽責任。自我。藤田の無責任、筑井の自己の一貫性への疑惑。人間は相反するものを抱え込むものだ、一貫性のないことで一貫している云々。――議論の基盤を掘り崩していることへの繊細さの欠落。それを実践することで生じる世界を観想できているのか。責任や自我の一貫性への執着が前時代的であることは言える。だが、それを否定するだけなら、それもまた聞き飽きた言葉の型にすぎない。ポストモダニズムの浸透と拡散。ポストモダンとプレモダン。倫理の基礎はどこにあるか。あるいは倫理の不要を言ってみせるか。歴史の消滅。自由。パラノとスキゾ。意匠を変えて幾たびも到来する同じ問い。


▽藤田の「ザクティ動画」。批評家という人間。藤田のアップするザクティ動画がゼロアカ生の醜態を衆目にさらした。それを通じて、批評家の権威性が崩され、批評家もふつうに酔っぱらってくだを巻く一人の人間だという認識を提示することができた。それによって批評が身近になり、批評家の裾野が広がった。
▽ちゃんちゃらおかしい。青臭いガキどもの醜態が批評家全体のイメージに影響を与えうるなどという誇大妄想を、なぜ信じられるのか。(それとも東浩紀が映っているからか? 東の権威性?)
吉本隆明、生活者としての批評家像。高山宏、私生活の崩壊すら芸としてパフォーマンスする自意識。竹田青嗣、カラオケ好きを公言する自称、哲学者・思想家。


▽批評家。
▽芸としての批評。エンターテインメントとしての。「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つのことではない。批評とは竟に己の夢を懐疑的に語ることではないのか!」。またどこかで彼は、批評とは他人をダシに自分を語ることだ、と言っていなかったか。
▽批評。世界(の見え方)を変えること。断言こそ批評である。言い切ることで見えるもの。切断線を引くこと。クリティカルな断言をいかに説得的に展開してみせるか。《編集》としての批評。
▽アカデミズムがとにかくも実証の上に語らねばならぬことを、思いつきで語って許される人びと。あるいは、こう言おう――「批評とは本来ジャーナリズムのものである。アカデミズムの批評だって? それは批評の死、批評の納棺である。それは批評ではなくて「図書整理」である。」
▽「行蔵は我に存す、毀譽は他人の主張」。


▽ステージ後方の壁画、山田玲司と署名。


▽〔追記〕「ゼロ年代批評night」(2009.2.25)レポート各種;
東浩紀の愉快な仲間たちpresents 「ゼロ年代批評night」 - ろこ日記。
http://d.hatena.ne.jp/loco77/20090225/p1
▼◎消えるか?「新宿二丁目」への道程 その4—「ゼロアカ道場」の巻 - Voice Of Mosakusha Online〔模索舎
http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/2009/02/4.html
▼2009-02-28 ゼロ年代批評night - 鳴海
http://d.hatena.ne.jp/narumi-763/20090228#p1
▼「ゼロ年代批評night」@阿佐ヶ谷ロフトA - 黒熊のよちよち無料相談質屋
http://d.hatena.ne.jp/kumaXX/20090228
▼2009-02-25 - メタサブカル
http://d.hatena.ne.jp/nitar/20090225