ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

作業ノート

▽感想ノート。
▽全体、タイトルに内容が追いつかず、時間切れで残念。ただし進行役は奮闘していたし、個々の議論内容も充実。 敗因は、テーマがさすがに大きすぎたのと、テーマに則って自分たちの従来の問題関心を切り詰め、論点を集約する方向にも振りきれなかったことか。前準備の不足。
▽よく言えば、ぶっつけ本番でイベントを破綻させず、それなりにエキサイトした局面も生み出してみせたのは見事。組み合わせの妙、でもあろうか。 いわゆる“表現規制反対派”を自任している向きは、こうした集会に「相手」の生身の言葉と議論の水準、また行動力を確認しに行ったほうがよい。


▼議論の「前提」の整備、不足。 この企画者(規制推進派と目される人びとへの理解がある)にして。論者の一方は概念規定(用語の定義)の変更によってこの社会の認識フレームの布置転換を図っているのだから(APP)、前提の整理は必須のはず。もっとも、くだらぬ揚げ足取りに溺れぬだけでも、ましなほう、ではあった。
▽「ポルノ」の定義を変更することで、何を目指すのか。また、その戦略が今や「自動化」されているのではないか、という自省は感じられない。
▽そして。仮に定義変更を認めた場合に生じる論点や如何? という私の関心は相変わらず俎上にのぼらない。

▼自らの「代弁者」的地位への懐疑・自省の感覚。 いわゆる反対派よりは多少マシだが、本質的には変わらぬ印象拭えず(とりわけAPP)。 弱者あるいは他者への想像力も同断。むろんこれも、反対派よりはマシ、ではあるにしても。
▼議論の粗雑。 「敵」の単純化の弊は免れず。また細部におけるフレームアップも議論の説得力を損なっている。また、各自の立論の論理的なコロラリーを正負問わず追究する意欲も小さい。 ex. AV女優のライフストーリー(単体女優→虫責め出演)。佐倉氏はわれわれ(APP)のポルノの定義を理解していない。
▽いずれもアクティビストの限界か。〈政治〉や〈運動〉の誘惑に勝てぬ点では、反対派とたいして変わらない。

▼集団の内部的多様性。 SEANに顕著だが、内部に複数の異なる立場を抱え込み、いわば帯域の多様性を有効に利用している姿は好感。APPにもその気配は窺えなくはないが(「APP内のBL愛好家による発言」を引用しているあたり)、それを自らのポテンシャルとして積極的に展開する意志は感じない。 両団体の結社目的の相違に淵源するとは言えようが。

二重基準。 議論の枝葉に現れるそれは、論者の無意識の発露か、あるいは自らの原理の身体化の不足か。人前で話す緊張もあろうか。あるいは、前提情報の非共有ゆえか(車椅子の少女は誌面で(そのゲームで)どのように扱われているか/表現されているか)。
▽ex. 遠矢:車椅子の少女が性的対象になっているのです(「コンプティーク」誌に紹介された所謂エロゲーについて)。森田:“ペド”の欲望は社会的に構築されたもの(だからなんだと言うのか?)。中里見:これにより偉大な文学や映画をポルノと区別できる(なぜ区別する必要があるのか?)。 性的指向性的嗜好の粗雑な切り分け(区別できるという理論と、その区別を具体的レベルで妥当に遂行できるかは別の問題である)。ポルノグラフィとしてのBL。

▼ポルノグラフィとしてのBL、その扱いの難しさ。 運動における「原理と政治」の出会う場所。ということは豊饒な可能性の場でもある。
▽なぜ端的に「BLもまた性差別であり否定されるべきである」(BLもAPP言うところの「ポルノ」である)、と言えないのか。「BLすべてを規制せよと言っているのではなく、一部のハードな、人権侵害が描かれるタイプの作品だけが規制されます」といった語り。。あるいは、BLを語るような口調で異性愛ポルノグラフィを語れないのはなぜか。なぜ異性愛ポルノグラフィに対するような攻撃的な態度を、BLというポルノグラフィに対してとれないのか。
▽被差別者(被抑圧者)としての女性、という準拠点。反抗としてのポルノグラフィ。弱者に配分されるべき特権。あるいは、その立場からは“男性のBL消費者”はいかに評価されるのか。あるいは、「性差別ポルノ」としてBLを消費する読者が存在した場合は。
▽BL漫画は、その愛好者によって「ホモ漫画」と呼ばれている。そこに差別性がある。 では、そう呼ばなければ許されるのか。
▽ゲイポルノ、レズビアンポルノ(ゲイポルノの制作現場にも存在する性被害については言及された)。

▼ポルノとエロチカの境界線。 「平等」あるいはイクォリティとは何か。それは理論的に可能か。また現実的な実現可能性をいかほどに見積もるか。
▽両性の完全な平等にもとづくポルノグラフィ。それは一般的な意味でポルノたりうるのか。そもそもあらゆるポルノグラフィは本質的に性差別的なものであり、人権侵害的なものである可能性。

▼人権論の更新可能性と規制の根拠。自己の絶対性。 人権論は一本道の進化をたどるのか。進歩主義、歴史主義、あるいはオリエンタリズム批判を人権論自身に再帰的に適用すべきか。他方で、人権というフィクションをいかに擁護するか。
▽「国際的な人権(基準)」という時に含意されている「国際」とは、具体的に何か。
▽問題を“表現の自由”から引き剥がして考えようとする思考そのものは、評価できる。だが、代弁者に過ぎない人間――性差別的に語るなら“しかも「男」が”――何を偉そうに怒鳴り散らすのか。

▼原理と政治。 是々非々を機会主義に堕させぬ方法。〈政治〉や〈運動〉に原理を食い殺させぬこと。敵/味方の論理が歪めるものとクリアにするもの。
▽「こんなものは最低限の規制にすぎない」という語法の効果。“規制”という発想が孕む人間性への不信・蔑視を、直視しつつ語ること。

▼問題水準(あるいは領野)の切り分けの不足。 雑駁にならべてみても; 感情的水準、性差別論の水準、法学的水準、政策論的水準、運動論的水準、社会学的水準、歴史学的水準、論理学的水準、道徳論的水準、哲学的水準、etc.。
▽それらを切り分けようとしていないように見える。 ある水準における異論は、必然的に別の水準における異論を導出するものではない(と思われる)。にもかかわらず、特定の水準の議論で現象の全体を制圧せんとする欲望が強すぎる。“パッケージ化”された主張。差違を敵対へと翻訳する思考。

▼社会構築主義的言説。 「○○は社会的に構築されている(ものにすぎない)」。何ごとかを言ったかのように聞こえるが、実際のところそこで何が言われているのか?
▽カッコで補足した「されたものにすぎない」という価値評価は、社会的に構築されていることの論理的な帰結とは言えない。諸刃としての、他者の実存の否定、沈黙の強制。それをセクシャルマイノリティに依拠/を支援する立場で用いることの危険性。循環論法。
▽現在、社会構築主義的言説の理論的ポテンシャルはどの程度と評価できるか、評価されているか。

▼粗放。いわゆる規制反対派が依拠する原理をリベラリズムと把握するのは当らずとも遠からずとしても、その対立項は道徳主義であり、その代表が石原慎太郎的なものであり(ここまではまだよい)、それはすなわちコミュニタリアニズムである、と言い放つ粗雑さ。それはどうなのか。
▽もっとも、いわゆる反対派のリベラリズムと石原的道徳主義の双方が、人権侵害の観点を無視(脱落)する点で前提を共有しており、相補的関係にある、という指摘はおそらくかなり正しい。そして、両者に対立する項として、性的平等権と性的人格権を核とする自らの人権論アプローチを置く構図設定は、戦術的に見事と言える。


▼下劣さとはなにか。
QT @papsjp: うちがフォローしている人たちのツイートを読むと、基本的にみんな真摯で真面目だなあと思う。ところが、藤本某と山口某のツイートだけはそういうのが根本的に欠如してる。藤本某は自称フェミニストのはずだが、フェミ的ツイートをしているのを読んだことない山口にいたっては入金額をつぶやくだけ。/ 12:59 AM Feb 10th 2011
QT @papsjp: @wakabafukada フェミ的なことを語ると、規制反対派の圧倒的多数を占める性差別主義者の反発を買うことを藤本〔由香里〕は恐れているんでしょうね。結局、彼女にとっては、フェミ的価値観よりポルノの方が重要だったということですね。/ 9:20 AM Feb 10th 2011
QT @papsjp: 長年、子供の支援と救済のために頑張ってきた日本ユニセフが、児ポ規制に賛成しているというだけの理由でボロクソに攻撃され、実在児童基金単にネットでオタから金集めてカリヨンに寄付するだけで絶賛される。規制反対派ってホントに下劣だな。/ 11:46 AM Feb 10th 2011

▽——「敵」に敬称を付してはならない。フェミニストTwitter上において必ず「フェミ的なこと」を一目でわかるようにtweetしなければならない。
▽間違いなく。くだんの「規制反対派」と同程度には下劣である。この下劣さをなんの抵抗なく受け入れる方々を私は信じない。いわゆる表現規制反対派が信じられないのと同じように。


▼「社会的構築」。
QT @papsjp: 小児性愛も強姦欲も女性の身体を性的に支配したいという男たちの(社会的に構築された)普遍的性向の延長上にある欲求であって、そうした欲求の持ち主たちは断じてマイノリティでも性的弱者でもない。宮台〔真司〕(およびその無意識の追随者たち)の「性的弱者論」は強者を弱者に偽るペテンである。/ 10:42 AM Feb 9th 2011

▽——「小児性愛」と「強姦欲」は並置される。同様に両者は「男性特有の欲望」と規定される。そして、それらを抱えた人間は「性的弱者ではない」と口にすることで、いったい何を示したいのか。その含意。「マイノリティでも性的弱者でもない」ことそれ自体は、「強者」であることを意味しない。論理的トリック。
▽現に実存としてある他者への敬意、あるいは普遍としての人権という荒唐無稽かつ崇高な理念に殉ずる覚悟など求むべくもないのか。 なんなのかこの驚くべき鈍感さは。
▽“ペド”という蔑称。共感可能性の拒否。 だが。ならば強姦欲、あるいはレイプ依存(強姦にしか性的充足をおぼえることができない)のようなものがあるとして、私たちはそこにも共感可能性を考えるべきか。さらには、快楽殺人者についてはどうか。ネクロフィリアについてはどうか。 cf.映画「キスト」(リン・ストプケウィッチ監督作品)。OY氏の教示。
▽「異性愛も同性愛も女性の身体を性的に支配したいという男たちの(社会的に構築された)普遍的性向の延長上にある欲求である。」 ――とりあえず、「社会的に構築された」と前置きすれば「男の普遍的性向」などと言うのも許されることは理解できる。
▽「マイノリティ/弱者であるか否か」が特権性の根拠となる。その認定主体、判断する権限を持つのは誰か。
▽被害者や弱者を代弁する。「代弁者」という自らの立場の特権性に対する恐れや、自己陶酔への自省はカケラもないのか。 それとも、そんな「真摯で真面目」な意識を抱えていては「運動」などできはしないのか。


▼敵と味方。
QT @papsjp: おっしゃるとおり。主敵は非実在ではありません。しかし、非実在だから被害者はいないというのは間違いだということです。ヘイトスピーチはすべて非実在ですが、広範な人権侵害を生みます。 RT @Future_Men: ただ、今回の条例がアニメ・マンガの規制にこだわったところがちょっと疑問。貴会の主張からは、もっと違う規制が必要だったのではないかとも感じます。全部読んでからいくつかツイートします。/ 1:03 PM Feb 11th 2011
QT @papsjp: そもそも都条例改正それ自体、われわれの理想とする法ではありません。まったく不十分だが、ささやかながら進歩的な改正の面を持っているという評価です。あれに対する一面的な批判があまりにも多かったので、結果的に擁護する言説が増えただけのことです。/ 1:08 PM Feb 11th 2011
▽——「運動」の論理。政治の論理。 対象の評価は、それそのものとしていわば“学術的(客観的、価値中立的)”になされるのではなく、政治的力関係によってなされる(あるいは、なされない)。(むろん、問題はそのような客観評価(学術的な態度)が実現可能かどうかではない。それが正義かどうかでもない。そうした自らの態度への自省心の有無だろう。)
▽「こんなものは最低限の規制にすぎない」とかなんの苦味もなく軽々しく口にできるセンス。趣味に合わない。
▽国家への信頼。国家を「敵」ではなく、利用しうるリソースとして捉える視線。旧左翼的な思考を脱している自説、“権力観の進化を繰り入れることができている自己”への陶酔。


▽ポルノは「使われる」もの、使用されるものである。
▽良貨は悪貨を駆逐できるか。現実には、悪貨は良貨を駆逐する。ポルノは営利活動としてある。
▽中里見:学問の世界においては、良貨は悪貨を駆逐できる、と思いたい。そこにある苦みとユーモア。


▼ノート:
▽QT @papsjp: うちの会〔ポルノ被害と性暴力を考える会〕の主張がよく誤解されているようなので時々復習しとこか。 1、われわれの言う「ポルノ」は性表現一般と同じではない。簡単に言えば、性差別的・人格侵害的性表現がポルノ。 2、非実在ポルノはわれわれの主敵ではない。主敵は生身の女性(ないし男性)を虐待するような実在ポルノ。/ 11:01 PM Feb 10th 2011
▽QT @papsjp: 3、法律でポルノを禁圧すれば問題解決というような稚拙な考えはわれわれとは無縁。法的に規制すべきは、ポルノ全般ではなく、その中でとくに悪質で虐待的なものに限定されるべき。現在の、他者への性的支配を核心とするセクシュアリティのあり方を放置してポルノだけを禁止しても問題解決にならない。/ 11:06 PM Feb 10th 2011
▽QT @papsjp: 4、したがって、真の問題解決は、他のあらゆる差別と同じく、社会システムの変革による。あくまでも法的規制はその変革事業の一手段として位置づけられる。強姦を法的に禁止したからといって強姦がなくなるわけではないが、だからといって強姦を法的に規制しても無駄だということにはならない。/ 11:09 PM Feb 10th 2011
▽QT @papsjp: 5、DVやセクハラに関しては、法的規制の意義を認める人も、ポルノに関しては突然、法的規制の無意味論や逆効果論を主張しはじめる。ヘイトスピーチを規制したからといって差別意識はなくならないが、ヘイトスピーチが垂れ流しされている社会が平等を促進せず、それをますます遠ざけるのは明らか。/ 2011/02/10 23:12:55


▽以下、いずれも編集は無惨。
▼Togetter - 「ポルノ被害と性暴力を考える会(papsjp)による「女性が楽しむポルノ=依存症」発言集」
http://togetter.com/li/87182
▼Togetter - 「ポルノ被害と性暴力を考える会(papsjp)による、都条例改正反対派一斉攻撃」
http://togetter.com/li/87189
▼Togetter - 「ポルノ被害と性暴力を考える会(papsjp)による石原擁護発言集」
http://togetter.com/li/87177
▼Togetter - 「ポルノ被害と性暴力を考える会(papsjp)による、実在児童の人権擁護基金設立への“ネオナチ発言”を含めた罵倒」
http://togetter.com/li/87195
▼Togetter - 「反ポルノ団体スタッフ「障碍者の性的ケアを行うNPO女性差別性風俗と同じ」」
http://togetter.com/li/99937