ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

作業ノート2

▽ノート、続。
▼作業ノート1 - ilyaの日記 http://d.hatena.ne.jp/ilya/20110218/1298036143
▼TwitDoc.com - the EASY way to share your documents on Twitter http://twitdoc.com/view.asp?sid=TU&ext=PDF&lcl=-.pdf&usr=talyun_&doc=47241885&key=key-27l8t407qd8nuf10rssi


▼第三章、スケッチメモ。
▽ぬぬぬ。第三章はやはり難しいよ…。
▽そもそも図8(かろうじて図11も?)はともかく、他の図版は本当にマルチスクリーン・バロック(MSB)と言えるのか? 他ジャンルとの表現的な「断絶」は、本当に事実なのか? 女性作家が少女マンガ的技法を媒介したと立証できるのか? 『漫画をめくる冒険(上巻)』の同化(同一化)分析をこんな簡単に適用してよいのか?
▽その前に、成年コミックマークバブルによる女性作家の流入(女性作家が増えた)というのは「事実」なのだろうか?(たとえば、「男性の少女マンガ作家が稀少である」あたりの記述とか、過去の少女漫画を考えると超怪しいわけだし…) http://www.tinami.com/x/moujou/report.html
▽ページ数の制限「月刊で16ページ読み切りが基本」をエロの〈圧縮〉の原因に挙げるのは妥当なのか。マルスク成立と16ページ基本時代は本当に重なっているのか? http://ha.shiftweb.net/project/ml-reviews/sento23.html
▽(もちろんハードウェア(作品のページ数)の制限がソフトウェア(表現)に影響を与える、という観点は正しい。だが、16ページという言葉を、検証せずに受容してよいのかどうか。)
▽〈圧縮〉により「間(ま)」を失ったことで、エロマンガの読み手は描かれるキャラへの感情移入(同一化)の契機を抑圧された、にもかかわらず読み手は「直感的にキャラクターに同化させられ、性感を伝えられる」という論理には無理がないか。理屈はわかるにしても(感情移入と同一化を分離して考えればよい)。 そこで生じているのは「同化(同一化)」なのか? そもそも「同化」って何だろ?
▽マルチスクリーン・バロックによって時間感覚の真の曖昧が表現された、のではなく、ある時期にエロマンガのポルノグラフィとしての機能にとってコマは不要と考えられた、のではないか? そしてマルスクが普遍化しなかったのは読者の保守性と、コマの存在が漫画がポルノグラフィとして機能するのに実は有効だったから、ではないか?


QT @talyun_: マルチスクリーン・バロックについての記述はなるべく永山氏の論に沿うように解釈したつもりです。図9は『網状言論F改』で、図11は『エロマンガ・スタディーズ』でMSBの例として参照されています。あとは私が見つけてきたものです。


▼「マルチスクリーン・バロック」の定義。
▽とりあえず。第三章。引用図版が疑問で…。 もちろん永山さんの論に沿っているかどうかは問題ではないので、卒論中に提出される定義また主張の一貫性に沿っているかどうか、ですよね。「永山氏は自らが提出したMSB概念の本質を捉え損ねている」と立論してもよいわけで。 QT @talyun_: マルチスクリーン・バロックについての記述はなるべく永山氏の論に沿うように解釈したつもりです。図9は『網状言論F改』で、図11は『エロマンガ・スタディーズ』でMSBの例として参照されています。あとは私が見つけてきたものです。


▽画面から一見して受ける印象。 図9と10はその過剰性において近しい。図8と11は、それぞれ独立している。 図8は図像的にコマの「古典的」構成が崩壊していますが(その点9,11に近づく)、図11はコマ構成はむしろ古典的であり、時系列が特定しにくいだけに見える。
▽このように印象の異なる複数の図版を、本当にMSBという一つの概念に統合できるのでしょうか? 「表現の特徴」と題されたセクションでも、図版番号を指示しながらの精密な議論はなされておらず、そこで語られるMSB(の定義、必要条件)が、本当にこの図版全てに対応しているのかどうか、疑問の余地を残している。
▽「過剰」性という点では図11はMSB失格でしょうし、コマの古典的規範の観点からすると、(1)コマの独立性の侵犯において(コマではなく絵の配置で頁構成)、図9の右ページや図8・11はむしろ古典的なコマ割りであり、失格。 (2)コマの順序誘導効果の点では、図11は失格(非常に古典的)で、図9は台詞順序で誘導されていそうで微妙な気が?
▽理念としてのMSB=マルチスクリーン・バロック概念は理解できるのですが、それは本当に実在しているのか? と論文を読む限りでは思ってしまうというか。
▽必然的に、他ジャンルと断絶しているという指摘にも疑問が。(たとえば図8や図11のような効果を狙った表現は他ジャンルにもありそう。)
▽複数の効果と意図(そしておそらく来歴)の異なる表現をひとまとめにして、後段の同化・多重コマ・エロの圧縮といった主張の具とするのは剛腕に過ぎる感触があります。もちろん細かく説明されれば、納得するかもしれませんけれど…。


▽つまりは「MSB」が出現し存在している、という前提から話が始まっているように見えます。
▽でも本当は、まずそれが証明されねばなりません。そのために図版が引用され、時系列的な追跡もされるべきです。もちろんコトが「評論」なら「俺にはそう見える!」でもよいのですが。
▽ただし。読者を性的に興奮させ自慰行為に使用させる、という成年コミックの要求があってこそ、ここでMSBと括られているようなマンガ表現が生成しやすかった、という仮説それ自体は十分にありえると思います。それは類似表現が他ジャンルにあったとしても成り立ちますし。
▽あ。私自身は、永山さんがMSBと言い指した何か、図9や図11から受け取る何かが、成年コミックマーク以後において可能となった(出現した)という たゅんさんの理路は一定の説得力がある、と思っています。ただ、その直感と、それを説得的に提示できているかどうかは別問題で。


▽〔追補: ▼イズミノさん、マルチスクリーン・バロックなど〔2009.12〕 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/2069


▼「同一化」について。
▽第三章について。MSBと同化(同一化)に関する議論pp.24-26。 そもそも「同化」とは何か? 同化と「感情移入」の関係如何? といった疑問については措きます。
▽■成年コミックの「抜き重視」化は「エロティックな絵」を限界まで詰め込む画面を要請した。 ■読者は身体感覚や位置感覚が描写された対象に同化する →すなわちエロ漫画読者の同化対象は女性キャラである →MSBの迫力は詰め込まれた大量の同化対象が一挙に提示されるために生じる。
▽上のようなストーリー理解で正しいでしょうか?
▽所狭しと詰め込まれた欲情対象(「一度に認識する情報量の多さ」)に一挙に読者を同化させることで、MSBは読者に迫力、混乱、めまいのようなものを惹き起こす。単に情報量が多いのではなく、読者の描写対象キャラへの同化作用が生じるために、独特の力を持つ。


▽上の理解でよければ、たゅんさんの理路自体は理解できます。が、どうも腑に落ちる感じがしませぬ。
▽MSBの「迫力」なるものは、本当に「同化」ゆえ生じているのだろうか? と。MSBは本当に、“同化作用の頻度・強度を増すことで”読者の性的快感を引きだそうと狙っている、のか?
▽卒論で示され適用された限りでの“描写対象=同一化対象”の理論がOKなら、「エロマンガでは」(p.25)という限定は無用で、AVもエロ写真誌も同様の同化作用を読者に引き起こすでしょうし、ポルノグラフィはすべてそうだ、と言えそうです。それ、本当なんでしょうか?(というか何にでもあてはまるのなら、その議論は意味をもつのだろうか?)


▽むむむ…。ポルノ消費者における欲情対象への同化という語り自体が、私の中では宮台真司以来(?)のクリシェなので、疑いすぎている、身構えすぎてるのかもしれないです。これはありそう。
▽「ポルノグラフィの(男性)消費者は欲情対象として描写された対象(女性)に同一化している」という体験の事実性如何というよりも、それを言う(主張する)ことでその語り手が本当のところ何を伝えようとしているのか(何を実現したいのか)、に興味がわいてしまうというか。
▽「いや、描かれている女性にこそ同化しているんですよ」という主張の背後に隠された動機、欲望、ですね。それを忖度したくなる。それを語ることの政治性に注目したくなると言ってもいい。 そこには単なる事実記述、客観的記述を越えた気配がつきまとっている、そんな気がするのです。
▽特にこの「ポルノは描写対象とする女性にこそ男性読者を同化するメディアだ」という主張が、そういう消費者「も」いる、ではなく、pp.25-26にあるように、読者の「主要な同化先は感覚表現をまとった欲情対象のキャラクターのほうなのである。」と断言されると。(なぜ、ポルノの消費形態をそこに一元化して説明する必要があるのだろう?)


▽あ。この同一化の議論から、「強姦する男は強姦されている女性に同化するために強姦するのである」、くらいの主張まで突き抜けてしまえば、(レトリックとしては)面白く感じるのかもしれません。即ち、レイプしたいという欲望は存在しない。レイプされたいという欲望が存在するだけである。とか。
▽あるいは。 卒論に従うなら、男性読者は女性キャラに同化しながら自身のペニスに刺激を与えてるわけですよね? その乖離、女性に同化しながら男性のみに在する生殖器から性的快感を受け取る、その分裂がMSBに異様なめまいを生じさせるのだ! とか言った方が面白さは生じるのかも。


▽〔追補: ▼ポルノに感情移入する最中のジェンダー問題〔2012.8〕 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/362682


▼リプライ。
QT @talyun_: 永山さんがMSBと呼んだ表現とはどのようなものか表現論的に説明する、というのがこの章を執筆するにあたっての思考の出発点でした。氏のそれについて述べられた文章から、MSBとはどんなものであるかだいたい見当はついていましたが、実際、図9と11はまったく違っています。
QT @talyun_: 表現を分析する際の各要素は、あるなしのようなデジタルなものではなく、極から極のあいだの濃淡の中で位置が決まるようなアナログなものなのだろうということです。ある要素では「失格」かもしれませんが、別の点では「失格」ではないのです。
QT @talyun_: 図のどれかが何かの要素で「失格」のように見えたということは、その図はその要素においてMSBとしてくくるには外側過ぎたかもしれません。そんな例しか提示できなかったのは私の力不足なのだと思います。そうでなければ典型的な例が発生しないほどにMSBは未成熟なのでしょう。
QT @talyun_: ちなみに、エロマンガの表現は、何ページ目に位置しているかで変わってきます。性欲の喚起度はセックスシーンが始まるとともにだんだんと上昇していき、フィニッシュシーンで最高潮を迎えます。第3章を読めば納得してもらえると思いますが、そこで用いられやすいのがMSBです。
QT @talyun_: ところが、図11の見開きは雑誌掲載時にはその話の第2、3ページ目なのです(『シャイニング娘。』の話の中では第一のクライマックスの中盤あたり)。序盤のページでは読者の興奮度に合わせて性欲の喚起度は比較的マイルドにしたほうがよいのです。
QT @talyun_: そういった序盤ではMSBを使うといっても、過激さは抑えたものになってしまうのでしょう。でも(永山さんによれば)MSBであることには変わりありません。つまり図11は、ただのMSBと呼ばれるべきではなく、序盤に用いられたMSBと呼ばれるべきなのだと思います。
QT @talyun_: 他の図についても、ある程度同じことが言えるでしょう。つまり、なにかしらの事情を抱えたMSBである、と。


QT @talyun_: 次は同化のお話ですが……
QT @talyun_: ここでは勉強不足ゆえにエロマンガに限定しましたが、欲情対象への同化はエロマンガ以外のポルノグラフィでもありうると考えます。
QT @talyun_: 胡散臭い箇所もありますが、フェミ方面から欲情対象への同化を導き出した論文です。 「ポルノグラフィの誕生──近代の性器的セクシュアリティ――」〔小田亮*1 http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/pornography.html
QT @talyun_: ただ、感覚表現がなければ感覚的に同化することはできません。
QT @talyun_: また、これも勉強不足ゆえに、フェミニズムにはたいした恨みも問題意識も持っておりませんので、執筆当時はそこに反旗を翻そうとはまったく思っておりませんでした。書き方によっては可能かもしれませんが。
QT @talyun_: 主張の背後に隠された動機・欲望は、決して反フェミではありません。あえて言うなら「かわいい2次キャラ(男でも女でも)になって性的に気持ち良くなりたい欲」でしょうか(笑)
QT @talyun_: あと、エロマンガにおいて欲情対象は女性はもちろんのこと、男性、異形つまりなんでもありなのです。欲情対象を女性に限定する語り口はエロマンガのマンガとしての豊饒性がこぼれ落ちてしまうでしょう。
QT @talyun_: ショタキャラを欲情対象としたMSBがあっても不思議ではありません。また、女性キャラへの同化はMSBを用いないエロマンガでも同様に起りえます。


▼_monpe氏コメント。
QT @_monpe: ようやく『成年コミックマークの爪痕――マルチスクリーンバロック』( http://tinyurl.com/47zoyfv )を読み終えた。『網状言論F改』と『エロマンガ・スタディーズ』も引っ張り出してきて、永山薫氏の「マルチスクリーン・バロック」定義も確認。
QT @_monpe: そもそも、エロに限らず漫画を沢山読んでいるわけではないので、「マルチスクリーン・バロック」(以下MSB)がエロマンガ出自のものであるという、漫画エキスパートであろう筆者(が引用元とした永山氏)の主張自体には逆らわないことにして読み進めた。
QT @_monpe: 論旨に従い、成年コミックマークがエロマンガ表現の一部を先鋭化させてMSBが生み出されたとして、ではその表現が一般漫画にどの程度フィードバックされているのかをもっと掘り下げていたら表現論としてもっと面白くなったかな。一般漫画では扱いづらい技法、とサラっとまとめてるだけだから。
QT @_monpe: 永山氏は「ゲームの画面のような漫画」(網状言論F改)と端的に表現していますね。「パソコン・ゲームのマルチ・スクリーン(ウィンドウ)がそのまま紙の上に移植されたことを想像するとわかりやすいだろう」(エロスタ)
QT @_monpe: さらにエロスタでの説明を要約すると、古典的なコマの流れを無視して、見開き全体で一つの瞬間(あるいはごく短い時間)を表現する技法。各コマは時間の流れを説明するのではなく、同時に起きていることのディテールだったり別のアングルの描写だったりする。
QT @_monpe: まあ私なりに解釈するとエロマンガの一番重要なところである「美味しい瞬間」を引き伸ばし・拡大し・反復して見せるための技法だということになります。
QT @_monpe: で、一般漫画でMSB的なことをしているものはないかな、と手近に転がっている漫画をパラパラやってみた。これがそうなんじゃないか、と感じたのは『BLACK LAGOON』。
QT @_monpe: もともと『ブラクラ』はB級アクション映画を意識しているところがある漫画で、そういう映画でよく用いられる、短いカットを素早く繋げてアクションシーンのスピード感を出すという技法を、コマ割りを圧縮して詰め込むことで漫画に落とし込むというようなチャレンジをしていた。
QT @_monpe: 今手に取った『ブラクラ』9巻p.191-p.222あたり。米兵達とロベルタというメイドさんとの戦闘シーンは、そうした極度に圧縮されたコマ割りでスピード感溢れる描写になっており、戦闘がヒートアップしていくにつれて、コマが切り分けている時間の間隔がどんどん短くなっていく。
QT @_monpe: そして、p.201-202とp.212-213の見開きでは、コマ割りがされていながらも、その作品内時間は完全に同一になっている。一つの短い時間内に同時に起きていることを見開きのなかで一度に描写してしまう、MSBそのものではないだろうか。
QT @_monpe: で、『ブラクラ』9巻でのMSBは実際に読んでみてどうなのか、ということなんですが、ぶっちゃけすごく読みづらいです。とにかく情報量が多いうえに、時系列を把握できないので、起きている事柄がわかりにくい。まだMSBが漫画を読むときのお約束になっていないということもあるのでしょうが。
QT @_monpe: 前向きに評価するとすれば、「何だか分からないけど凄い・ヤバイ」ことを表現するには面白いということ。この一連のシーンは、米兵達がメイドのロベルタさんを追っかけていたはずが、逆にメイドさんに翻弄されまくるというもの。
QT @_monpe: MSBによって読者に与えられる混乱は、米兵達の「なんだか良く分からないけど、とにかくヤバイ」という危機感を良くあらわしているともとれる。件の論文内では「MSBは感情移入を行いづらい」と指摘されていたが、それは使い方次第かもしれない。


▼備忘:
▽雑誌『コミック・ファン 09号』雑草社(2000年)、「巻頭特集: まんがと性、複雑な関係」、はチェックされていますか? 編集プロダクション(コミックハウス)社長やいくつかの雑誌編集長へのインタビューは、当時の“現場”の状況を知る助けになると思います。
コミックハウス社長への取材記事が興味深いはず。 ex. 成年マーク無しコンビニエロ漫画誌(ポルノ志向)の採算ラインについて、マーク付の過激化によりビジネスが厳しくなってる状況(コミックハウスも出す計画〔おそらく後の「COMIC 天魔」〕)、成年マーク付マンガ誌進出への版元の態度予測、エロ雑誌の「キャラメル商法」等。 QT @talyun_: まったくの未チェックでした。どんなこと書いてありました?
▽他のインタビューにも業界を垣間みられる断片が分散している感触です。 なおヒョーロンカ筋の記事も載っていますが、そちらはちょっと……。これは老婆心ながら。(吉本松明さんのエッセーは、それとして読む価値はありそうですけれども。)