ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

「マルチスクリーン・バロック」について

▽「マルチスクリーン・バロック」(MSB)に関するオリジナル言及(永山薫)をクリップ。


▼発言23「もんじゃ焼き、またはマルチスクリーン・バロック」〔2000.10.21〕|『戦闘美少女の精神分析』をめぐる網状書評 http://ha.shiftweb.net/project/ml-reviews/sento23.html
▽「とはいえ、この画像が異様に映るのは、伝統的な漫画表現技法、即ち、右上から左下に向けて順を追った形でコマが配置されるという文法とは対極にあるからでしょう。特に漫画読みに慣れた読者ほど脳内の文法書とこの画像との乖離、言い換えれば「入ってくる情報とデコーダの仕様のズレ」が大きいためドラッギーな感覚を覚えることになるわけです。」
▽「ところで、こうした見開き単位でリニアなコマの流れを破壊ないしは無視した画面構成はレディスコミックだけにとどまりません。私の主戦場である〔男性向け〕エロ漫画の世界でも、ここまでワヤクチャな例はないにしても、ここ近年、似たような表現が出てきています。/ 見開き単位で、リニアなコマ割りのオヤクソクを無視するかのような、重層的で圧縮された表現が見られるようになってきたのです。/ 師走の翁(『師走の翁』、ヒット出版社)の画面構成がその代表例ですし、板場広しの最新単行本(『そんなことないよ』、ティーアイネット)にもその実例を見ることができます。また他の作家でもエロティックなシーンではこの「もんじゃ焼き」表現が多く見られるようになってきました。(「もんじゃ焼き」とは言い得て妙ですが、それじゃあんまりなので私は「マルチスクリーン・バロック」と勝手に名付けています)。」
▽「では、何故、こんな表現が出てきたのか? どのようなコンテクストが導入または流入しているのか? ここではレディスではなくエロ漫画に限定しますが、ざっと以下のような理由ないしは背景が考えられます。まだ考え中なので疑問も含めて思いつくまま並列的に挙げておきます。」


▼「セクシュアリティの変容」|『網状言論F改』(青土社、2003年)
▽「マルチスクリーン・バロックというのは、ゲームの画面のような漫画のことですね。一応コマ割りはあるんですけど、そのコマとコマのつなぎにおいて、伝統的なコマ割りは完全に破壊されています。ぱっと見開きを見て、読者によって視線のさまよい方に差はあると思いますけど、視線がマルチスクリーンを見るように一気に全体を捉えるものです。これはたとえば師走の翁などですね(図D)。一見してわかるように、もう何が何やらわからない。コマ割りはあって、リニアな流れを見ることも可能なんですけど、とにかく圧倒的にぐちゃぐちゃになってしまっている。これは乱交を描く際などに効果的なんですね。コマを追っても始まらないもので、ページを開いた時の衝撃がすべてなんですね。」(『網状言論F改』p.48f)


▼『エロマンガ・スタディーズ』(イースト・プレス、2006年)
▽「新しい表現と回帰する表現」 「洗練、あるいは変化したのは何も画風やスタイルだけではない。例えば古典的なコマの流れ、すなわちページ単位で右上から左下へ視点を誘導するという文法を無視し、見開き全体で一つの時間(あるいはごく短い時間)を表現するという技法が登場する。コマが割られていてもそこには時間の流れはなく、各コマは同時に起きていることのディテールだったり、別のアングルからの描写だったりする。ビデオ(パソコン)ゲームのマルチ・スクリーン(ウィンドウ)がそのまま紙の上に移植されたことを想像するとわかりやすいだろう。筆者はこれを「マルチ・スクリーン・バロック」と命名してよろこんでいたわけだが、もちろん作品全体を通してマルチしているわけではない。ストーリー展開は古典的なコマ割りで進行し、セックスシーン、それも3Pや乱交シーンが始まった瞬間マルチに切り替わるのだ。師走の翁の『シャイニング娘。』シリーズなどは見事なマルチっぷりの代表だろう。読者によっては違和感を覚える表現だが、ゲーム世代にとっては当然の帰結であり、すぐさま対応できるはずだ。」(p.88)
▽※p.88脚注。図版あり。 師走の翁『シャイニング娘。 2. Second Paradise』ヒット出版社、2002年。図版キャプション;「マルチスクリーン的な乱交。コマの順に時間が経過していると読むことも、ほぼ同時に起きていることを見開きで表現していると読むこともできる。」(p.88)
▽――引用文中「マルチ・スクリーン・バロック」とナカグロ2つで区切る表記は原文ママ