ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

作業ノート:社会構築主義(批判)をめぐって

構築主義社会問題の文献|中河伸俊のホームページ http://homepage2.nifty.com/tipitina/biblio.html


▼浦野茂「社会学の課題としての概念の分析 :「構築主義批判・以後」によせて」(「三田社会学」第13号(2008)) http://ci.nii.ac.jp/naid/120001728678
▼PDF:中河伸俊「予稿 社会学における社会構成(構築)主義 :ポストモダンの波が引いた後に何が残るか」 http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/program/program_data/43/WS/w3_2.pdf
「日本科学哲学会第43回大会・ワークショップIII.社会構成(構築)主義の現在」
▼山口毅「社会問題研究の一課題 :構築主義社会問題論における存在論的ゲリマンダリング批判以降」(「東京大学大学院教育学研究科紀要」38巻(1998.3))|UT Repository http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/860


▼Fear of Knowledge - まとまり日記 http://d.hatena.ne.jp/yuiami/20091225/1261705592
「TAをしていたコースの関係で、次の本を読んだ。/ Fear of Knowledge: Against Relativism and Constructivism/ 作者: Paul Boghossian/ 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Sd)/ 発売日: 2007/12/07〔略〕/ 知識の社会構築主義相対主義に対する簡潔な反論本。」


▼研究・論文の部屋|社会学的妄想力〔山本功〕 http://www2s.biglobe.ne.jp/~isaoya/paper.htm

▼山本功「構築主義におけるクレイムの分析手法の一考察 :ベストのレトリック分析を手がかりに」(「中央大学大学院研究年報(文学研究科)」24号(1994)) http://www2s.biglobe.ne.jp/~isaoya/best.htm

▼山本功「社会問題としての「淫行」 :東京都青少年条例の改正をめぐる攻防」(「中央大学 大学院研究年報(文学研究科)」26号(1997), pp.121-132) http://www2s.biglobe.ne.jp/~isaoya/inko.htm

矢島正見・山本功「『有害コミック』規制運動の展開」(日本犯罪社会学会編「犯罪社会学研究」19号(1994年10月)) http://ci.nii.ac.jp/naid/110002779611
▽社会問題の構築過程を明らかにするケーススタディ。1990〜1992年における有害コミック規制・青少年健全育成条例改正運動が、請願書・陳情書の分析および提出代表者への面接調査により、自民党政調会長の通知文書を基盤とした警察行政主導のものであったことを実証する。付録として、請願書・陳情書の文面パターン。
▽「付記」に次の2文献を掲示
中央大学矢島ゼミ/山本功「「ポルノコミック」規制運動の調査研究」(日本民主法律家協会「法と民主主義」No.273, 1992年12月, pp.13-19)
中央大学文学部社会学科・矢島ゼミナール・ポルノコミック問題調査研究会『ポルノコミック問題調査研究 :都区内規制派・反規制派調査報告書』(1993年3月)


▼PDF:澤田唯人「「科学としての感情社会学」再考 :「身体論」からの示唆を得て」 http://www.hosei.ac.jp/img/pdf/kensho31_03.pdf
「第31回法政大学懸賞論文 優秀賞」「キャリアデザイン学部キャリアデザイン学科4年」
「2.社会構築主義からの展開と限界/ (1) J・クルターの「認知主義」批判/ (2) 構築主義的アプローチと困難/ (3)「生きられた感情経験」という問題」


▼PDF:魚住洋一「性的欲望とは何か? :現象学と概念分析」(2009) http://openjournals.kulib.kyoto-u.ac.jp/ojs/index.php/cap/article/viewFile/23/12
「日本ではほとんど紹介されていないことだが、一九六〇年代後半から、当時のいわゆる「性革命」、あるいは、フェミニズムやゲイ・リベレーションの運動から影響を受けながら、英米の哲学界においてセックスについての議論がはじまった*1。そうした議論の先駆けとなったのは、トーマス・ネーゲル「性的倒錯」(一九六八年)、ロバート・ソロモン「セックスのパラダイム」(一九七四年)、アラン・ゴールドマン「プレイン・セックス」(一九七七年) などである。なかでも、「現代のセックス哲学の幕開けとなった」[Soble 2008b:41] といわれるネーゲルの「性的倒錯」は、サルトルの『存在と無』を手掛かりとしながら、性的興奮についての「現象学的」な記述を行なったものであり、その後セックスについての哲学的議論を主導したアラン・ソーブルなどがきわめて「概念分析的」な立場に立つのに対し、対照的な議論を展開している。/ 私はここで彼らの議論を取り上げたいが、それというのも、セックスというテーマに関して、売買春やレイプ、ポルノグラフィといった応用倫理学的問題に立ち入るまえに、「セクシュアル性的」とはいったいどういうことか、われわれが行なう行為を「性的」にするものはいったい何なのかという問いに対し、現象学的記述と概念分析の双方がどう答えることができるか、何らかの見通しを得ておきたいからである*2。」
「*1 こうした議論を紹介した数少ないものの一つが、[江口 2006〔江口聡「性的モノ化と性の倫理学」〕] である。」
「〔トーマス・〕ネーゲルなどの「現象学的分析」と〔アラン・〕ソーブルなどの「概念分析」のいずれもが、社会構築主義による批判に耐えられないというこうした結論は、いささかアンチクライマックス期待外れの結末かもしれない。」

▼PDF:江口聡「性的モノ化と性の倫理学」(2006) http://melisande.cs.kyoto-wu.ac.jp/eguchi/papers/objectification2006.pdf
「要旨/ 本稿では、しばしば倫理的に問題があるとされている「性的モノ化(客体化)」の問題を考察する。カントの『倫理学講義』に簡単に触れたあと、M. ヌスバウムの議論を検討する。続いて「モノ化」の(非)倫理性には哲学的な難問があり、「ポルノや売買春は女性をモノ化するから不正だ」というように簡単に言いきれるものではないこと、また、「自由な同意にもとづいたセックスにはまったく問題がない」とも言い切れないことを示したい。最後にセックスの哲学および倫理学の課題について触れる。」


▼CiNii|平岡義和 書評:中河伸俊著『社会問題の社会学構築主義アプローチの新展開』(四六判322頁 2@, 625円, 世界思想社 1999年) http://ci.nii.ac.jp/naid/110002779972
▼CiNii|宝月誠 書評:中河伸俊・北澤毅・土井隆義[編], 『社会構築主義スペクトラム-パースペクティブの現在と可能性-』, A5 判, 232 頁, 本体 2, 500 円, ナカニシヤ出版, 2001 年 5 月刊 http://ci.nii.ac.jp/naid/110001898445


▼CiNii 論文|紙谷雅子「象徴的表現 :合衆国憲法第1修正と言葉によらないコミュニケ-ションについての一考 -4完-」(1991) http://ci.nii.ac.jp/naid/120000961115
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/16780
「III 星条旗という象徴/ C. 表現の自由と政府の利益」
▼CiNii|杉原周治「ドイツ青少年保護法における有害図書規制 :テレメディアと携帯メディア」(「広島法学」29巻1号(2005)) http://ci.nii.ac.jp/naid/110004709981
▼CiNii|稲増龍夫桂敬一「「大衆」の崩壊(?)と現代文化の多元的位相 : 「有害コミック」問題の周辺を探る」(1992) http://ci.nii.ac.jp/naid/110002772934
▼CiNii|「「有害」コミック研究(1) (I-1部会 子どもとメディア)」(1994) http://ci.nii.ac.jp/naid/110001890900

▼加藤正志「マンガの社会的評価についての一考察」〔卒業論文〕 http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/socio/lab/sotsuron/97/kato/0-contents.html
「〔※略〕/ というように、一見いまや量質共に日本の社会・文化の中で決して小さくないウェイトを占めているようにみえる「マンガ」だが、その反面いまだ市民権を得ていない部分も残っている。明らかに大人向けに描かれたマンガもある事は既に記したが、今でもなお「サラリーマンが電車の中などでマンガ雑誌を読んでいるのは日本だけだ」なんて言われたりする。子どもの頃に「またマンガばっかり読んで!」と親に叱られた経験のある人はおそらく多かろう。極端な話をすれば、小説の賞(芥川賞直木賞など)はニュースになってもマンガの賞がニュースになる事はない。つまり何がいいたいのかというと、マンガは単なる「紙に印刷されたメディア」という風に他のメディアと同列には扱われず、何らかの意味付け、それもマンガに接するという事が全面的に評価される訳にはいかないような意味付けをされている疑いがある。それはつまり、例えるなら「天気のいい休みの日に一日中小説を読んでいた」という発言と「天気のいい休みの日に一日中マンガを読んでいた」という発言が決して同列に扱われるとは限らないということである。本稿ではこの点に注目して、マンガが社会からどのような視線を向けられ、どのようなイメージを持たれているかを調べたいと思う。まずは次章でマンガの成り立ちを社会との関わり合いも交えて述べたいと思う。」

▼2001-02 社会学部ゼミナール|Undergraduate Seminor〔安川 一〕 http://ofc-hjm.misc.hit-u.ac.jp/hjm/UG/Seminars/01semi/01semi.html
社会心理学、いや、「ミクロ社会学」のゼミである。/ “心理学”という言葉に惑わされてはいけない。このゼミは“こころ”を科学しようとするものではない。“こころ”にはなるほど謎が多く、人の“こころ”は、いや自分の“こころ”さえもよくわからない。“こころ”が気になる人は多いらしい。・・・が、このゼミは“こころ”は扱うところではない。その存在を否定することこそしないものの、“こころ”をとりたててとりあげることはない。要は、関心がない。(でもまあ、よくわからないもの――何かの行動の原因やメカニズム――を個としての自分の内側に位置づけようとするときにこの“こころ”ってやつを持ち出すのだろう。きっとそうした言い方、考え方が根づく前にはそれは“なかった”のだろう)/ “社会心理”という言葉にも惑わされてはいけない。たぶん、群集やパニックやうわさや流行などに現れる人々の集合的(心の)動き、あるいは世論や世相などのように時代を制約として人々の間に共有されているようにみえるもの、そうしたものをとりあげると、いかにも“社会心理”っぽく感じるだろう。宗教儀式やカルトやユング流の集合的無意識なんてのもそれらしい。私たちひとりひとりの“こころ”は、そうした集合的なものを一部に含んでいる、もしくはそうした集合的なものの一部に含まれている、そんな気がするなら、こうしたものにはいよいよ興味がわくかもしれない。・・・が、このゼミはそうした“集合的なもの(心であれ、行動傾向であれ)”を扱うところでもない。かつて心理学史の1ページをにぎわした「社会心の存在をめぐる論争」にあらためて加わることをするわけではないし、やはりまたその存在を否定することこそしないものの、そうしたものをとりたててとりあげることはない。やはり、要は、関心がない。(でもまあ、よくわからないもの――何かの行動の原因やメカニズム――を類としての自分の内側に位置づけようとするときにこの・・・《以下省略》)/ もちろん社会学(メイン・ストリートのそれ)ではないから、社会構造や階層や不平等や権力などといった事柄を直接には問題にしない。文化や歴史を抽象的・具体的に考えるものでもない。では何をするのか。/ 端的にいうなら、「私たちが互いにやりとりし、関係を形成・維持・変容させていく際に何(=何らかの出来事)が起きているか」、さらには「その出来事がどのように構成され、またその構成のあり方が私たちの社会的世界をどのようなものにしているか」を、具体的な事実をもとに分析・考察していく作業、さらにはそうした作業に必要な基礎的視角と基礎的用語法を身につける作業、それがこのゼミの基本的作業である。」


▼「有害図書と青少年問題」読了〔2005/12/19〕|しがない地方公務員のメモ帳 http://bottom.at.webry.info/200512/article_19.html