ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

緑川ゆき論のためのノート〔2010.1〕

▽書かれるべき緑川ゆき論のためのノート。緑川ゆきがいかにすぐれているか、いかに私好みかについて。知友へのメールから。
緑川ゆき*1の作品集『アツイヒビ』『蛍火の杜』『夏目友人帳 1』の3冊(いずれも白泉社/花とゆめコミックス)を読んで。



緑川ゆきの短篇「花の跡」が、好き。そうして「寒い日も。」の遠山雛子さん萌え。(いずれも単行本『アツイヒビ』収載。)
▽雛子さんは眼鏡っ子。別名、頭突きヒロイン。“隣に座れないヒロイン”でもある。あと、ギターの島さんは“いい女”(「花唄流るる」)


緑川ゆきは、人と人がわかりあえないことを〈前提〉に語る人だ。あるいはテレパシー(精神感応)など存在しないこの世界で私たちがどう生きるか、を。重要なのは、「前提」は、たとえそれが絶対的なもの、動かしえないものであったとしても、あくまでも前提であって「結論」ではないこと。
緑川ゆきは、前提を「結論」と錯覚しない。だからそこには〈憧れ〉がある。けっして越えられない前提を、そうと知りながら越えていこうとする意志のせつなさがある。
▽短篇「蛍火の杜」に結晶しているのはまさにそれで、越えられぬ〈前提〉が踏み越えられる、人と人は完全につながることはない、という〈前提〉が打ち破られるその一瞬の、ひとつの奇跡のうつくしさと、同時にそれが世界の崩落する瞬間でもあることが、示される。(〈前提〉が崩れるなら、その前提の上に展開している主人公たち二人の世界は崩壊するほかない。)


▽「蛍火の杜」は〈前提〉が乗り越えられないことを示す。あるいは、乗り越ええた時には世界が終わるのだ、と示す。そうして、それでも、前提を結論に取り違えない人びとの〈憧れ〉の美しさを描く。
▽ギンの去ったあと、残された面を拾いあげる瞬間のヒロインの顔には涙が描かれず(泣き腫らした跡らしき描線はあるけれど)、むしろ何か静かなやさしさをたたえた笑みのようなものが宿る。それは、前提を踏み越えることの不可能性を知る人が一瞬の〈奇跡〉に捧げた感謝の笑み。だからその先に「さぁいこう/いきましょう。」という鮮やかな言葉が置かれる。彼女は人と人が触れ合えないこと、わかりあえないことを、「届かない」ことを知っている。けれど奇跡に憧れつづけることの大切さも知っている。憧れの頸さと美しさを知らない人はせつなさを知らない。せつなさを知らぬ人はやさしさを知らない。


緑川ゆきは私たち一人一人の世界がけっして交わらないことを知っていて、そこで私たちがどう生きるかを描く。ほとんど愚直といっていいほどに同じテーマを、丁寧にていねいに描く。憧れのかたちを描く。
▽『アツイヒビ』『蛍火の杜』『夏目友人帳 1』、3冊すべてそうだし、なかでも相当に古いと目される習作「名前のない客」(『アツイヒビ』所収)まで同じテーマとなれば、たぶんこれは、緑川ゆきに骨がらみの《世界に対する態度》なのだと思う。


▽私は緑川ゆきのような“世界に対する態度”が、これはもう、どうしようもなく好きなのだと思う。言いようのない好感を覚えてしまう。
▽たとえば現在公開中の韓国映画母なる証明ポン・ジュノ監督作品)*2はほとんど傑作に近い秀作だけれど(観る価値あり)、たぶん同じ態度を緑川ゆきと共有している。苦味はずっと強いけれど。
▽だって、世界はそんなふうにできている、のだから。


▽ゆきっ子(緑川ゆきの子供たち。人/妖怪不問)はみな、届かない何かに憧れている。それがブレないから、緑川ゆきの演出は誤りなく、しっかりと安定する。
▽この作家が好んで描くのは、ひとつの言葉や行為の意味が、各人各様に受け取られてしまう瞬間で、それはたった二人で向かいあっている間にさえほとんどつねに生じてしまっている。そうして、それによって、いや、おそらくはそうだからこそ、世界は回っている。そのことをゆきっ子たちは、たぶん知っている。それが私たちの乗り越えられない〈前提〉であることも。
▽だからゆきっ子たちは、だれかに向けて言葉を発するのと同時に、「私の言葉は届かない」、とか、「藤村くんは(そんなことはもう)“分かっている” のだ」、とか、「あなたの苦しみを理解しない女だと思われただろうか」、とか、繰り返し繰り返し、おしつぶされるような胸のうちでひとり呟くことになる。彼女たちは「正しい」こと(正解)を語ったにもかかわらず。
▽そして彼女たちは自分の言葉が伝わらないことを、非難しない。たとえ「正しい」ことを口にできたとしても、相手には届かない。そう、緑川ゆきにおいて問題はすでに、言葉や行動の「正しさ」や「誤り」では、ない。
▽これは決定的だ。緑川ゆきは、たとえ正しくとも、人が人であるかぎりそれは“届かない”ものなのだと知っている。緑川ゆきは、届くこと/届かないことの分割線に、正しいこと/間違っていることを重ねない(正しければ相手に届くわけではない。逆に、正しいからこそ届かないのでもない)。けれど。それでも。なにかが、なにかを通じて届くかもしれない存在しえない可能性を求めて、ゆきっ子たちは生きている。


▽換言すれば、緑川作品に頻出する、一つの言葉や行動が各人各様に受け取られてしまう瞬間──それこそが緑川ゆき作品を駆動している──は、ほかの描き手の作品に見られるような「誤解」の瞬間、ではない。
▽それが「誤解」であるなら、どこかに「正解」があることになる。「正解」(完全な伝達)、そんなものありはしないのだと緑川ゆきは知っている。ゆきっ子たちは知っている。
▽正解など存在しないのだから、誤解もまた存在しえない。緑川ゆきはそこで前提と結論を取り違えない。誤解が生じるから悲しいのではない。「誤解しか存在しえない世界」こそが私たちのスタート地点であり、私たちの生が抱える哀しみなのだと。
▽だから、緑川ゆきの描く、服のすそを引く、マフラーをつかむ、つなげない手をつなぐ二人が印象を残す。けして交わらないことを知っているゆきっ子たちが、それを知りながらさしのばす手。そこに叶うことのない〈憧れ〉が宿る。


緑川ゆきはけっして漫画が上手いわけじゃない。いや、もちろん下手ではないのだけど、“漫画の天才”の類じゃない。
▽にもかかわらず緑川ゆき作品が静かに強く響くのは、描き手の視座がブレないから。緑川ゆきの視線は呆れるほど一貫している。
▽ブレない視線から、的確な演出が生まれる。自分の漫画を駆動するものが何かを、自分が人間と世界の何を見つめているか、何を描かなければいけないかを、(頭で分かっていなくとも)身体で理解しているから。言いかえれば、緑川ゆきの瞳には、世界がそのようにしか映らない、のだ。緑川ゆきはどうしようもなく「作家」であり語り手だ。(どうしようもなくすぐれた作家はつねに、その作家だけが持つ特別な目を持っている。どうしようもなくすぐれた作家は、世界を「他のように」見ることができない。)


▽コメントしてくれたとおり、緑川ゆきの言葉はとてもきれい。
▽それもまた同じ源から生まれている。緑川ゆきの作品を決定的に支えている一つの〈断念〉が、この作家の言葉に、他のかたちではありえない、という納得をもたらす。緑川ゆきの“世界に対する態度”はブレることがない。だから緑川ゆきのつむぐ言葉はつねに精確だ。


緑川ゆきの描く会話はいちいちやさしい。届かない言葉、あえてすれ違うように発された言葉がていねいに拾われてゆく。
▽たとえば。想いを込めた言葉は、面前の人には決定的に届かず(というより、届かないことこそを発話者は求めているのだが)、かれらの後ろで、それをただ無力に見ていることしかできない人にこそ届いている。 ex. 「寒い日も。」


▽同じように、登場人物たちの視線を追いかける、登場人物ひとりひとりに見えている風景を捉えてゆく緑川ゆきの視線も、繊細でやさしい。
▽彼に見えている風景は彼女には見えない。彼女の風景は、彼には見えない。いかにあがこうと。(そして緑川ゆきはそれが私たちの生を可能にしている前提条件であり、絶望でもなんでもないことを忘れない。)
▽彼女たち自身においては絶対に重なりえない世界を、緑川ゆきはひとつの作品として、重ねあわせてみせる。二つの世界が重なることができたかのように見える瞬間を、示す。
▽そこで重なりあった世界を、届いた言葉を知っているのは、「読者」である私たち、登場人物たちを内側から生きることを特権的に許された私たちだけだ。私たちだけはそれを知っている。それは交わりえない世界に、緑川ゆきが捧げる祈り、ささやかな夢だ。


▽メモ。 ルールと〈前提〉。語ることと示すこと。多義性。二重の意味。『あかく咲く声』『緋色の椅子』。『ファンシィダンス』(岡野玲子)における「完璧な意思疎通」の不在。バフチン

〔未定稿〕


▽OY氏より『アツイヒビ』『蛍火の杜』『夏目友人帳 1』拝借。いずれも白泉社花とゆめコミックス刊。
▽cf. 泉信行漫画をめくる冒険 上巻』(「School Rumble」論)*3。なお、同書でとりあげられる津田雅美は、緑川ゆきの持つ“世界に対する態度”を決定的に(そしておそらく本質的に)欠いている。(もちろんそれは単にそうであるということであって、批判されるべき筋合いもない。)