ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

子貢という男

論語について共感できる感想を発見したのでクリップ。

2009-11-08 - killhiguchiのお友達を作ろう http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20091108#p2
「私は、このように、自分ではどうしようもない内面の屈折と、優れた理性知性があいまった人物が好みであるようだ。偉業と裏腹に、自分ではどうしようもない陰を抱えた人物。孔子関連で言えば、それに当たるのは子貢ではないだろうか。孔子の弟子といえば孔門十哲と言われるが、孔子が長い逃亡生活の間寝食を共にし激しく愛したのは、子路顔回であろうことは衆目が一致することだと思う。この二人は、陽と陰、行動と思索、狂と狷であって、正反対である。」
「では、肝心の子貢はどうだったのだろうか。言語には子貢と言われるように、弁舌の才は孔子に評価されていたようである。そして商人上がりの貨殖の才能を生かして俗世間で成功し、弁舌を生かして政治家としても活躍した。子貢に関しての記事は『論語』などに多く見える。また、戦国時代の諸資料にも姿を現わす。しかし、その評価は大きく二つに分かれているように思う。一つは、孔子を敬い自分のことを高く褒められても孔子には及ばないと弁舌を奮って華麗に謙遜したり、国際政治で華々しく活躍したりする子貢である。」
「けれど、『論語』を読むともう一つの評価が見えてくる。それは主に孔子による子貢の評価で、貨殖の才に富むことを咎められ、常に引き立て役として顔回と比べられ、よく師に質問をしては意地悪な答え方をされている。孔子は子貢を君子には遠いと考えていたようであり、その才能を認めながらも、咎めることが多く、あまり愛していなかった、いや嫌っていたのではないかと思える。子貢が君子でないことは、隠居した原憲を子貢が訪れた際に、奢った質問をし、原憲の答えに自ら恥じ入っていることからも伺える。商業の嫌いな孔子にとっては、子貢の、特にその貨殖の才が軽蔑すべきものに思えたのではないか。子貢が儒教を学んでいるのも、子路のような狂であるからではなく、立身出世のためではないかと、孔子は思っていたのかもしれない。確かに子貢は知的ではあるが、孔子は、彼の思考は浅く、顔回には遠く及ばないことを、意地悪く本人にも告げている。だが、子貢は、儒教を学ぶ目的が立身出世にあったとしても、孔子を恐らく深く愛していた孔子の没後、他の弟子の倍の服喪をし、その期間に、恐らく『論語』の元となる文章を纏めたのではないかと思われる。」
「子貢は賢く現世的な才能に優れた人物であったのだろうが、それならば、自分を嫌っている孔子など、利用するだけ利用して、あとは別れてしまえばよかったのではないか。利に敏い人間ならそう考えて然るべきではないのか。なのに、子貢は自分を嫌っていた孔子に死後も尽くしている。よく孔子に質問するのは彼だが、答えは彼を貶めるようなものばかりである。だが、彼は常に質問する。それは、師を知りたいという敬愛の念からではなかったろうか。利に敏いにも関わらず、嫌われている孔子を敬愛し孔子に尽くすという、この子貢の人物像に、私は魅力を覚える。彼は屈折していたであろう。自他とも認めるほど賢いにもかかわらず、師には評価されずに軽蔑されている。それでも、自分を嫌っている師を敬愛することをやめることができないほど、師の魅力に捕らわれている自分をも、賢い彼は知っている。自分の敬愛する孔子に嫌われ、自分は賢い人間であるにも関わらず孔子の後継者たりえないことを自覚させられ、それでも敬愛を止めることができない。自分を評価してくれない孔子の、けれども、その魅力に最も深く捕まってしまった人間が子貢なのではないだろうか。誰か、子貢の小説を書いてくれないかなあ。」


▽子貢の魅力をよく捉えている。あとはやはりストレートに子路か。
▽子貢を主題とした小説はないか? 子貢、すなわち端木賜。姓を端木、諱を賜。孔門十哲の一。「言語(弁舌)には宰我(宰予)、子貢」と評されている。