ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

演劇「SOLITUDE」(SPIRAL MOON)@下北沢「劇」小劇場(2008年11月29日〜12月7日)

▼SPIRAL MOON the 18th session「SOLITUDE」
http://www.spiralmoon.jp/ninf_next.htm
▽会期: 2008年11月29日(土)〜12月7日(日)。会場: 下北沢「劇」小劇場。チケット(全席指定): 前売3,500円、当日3,800円。受付開始、開演45分前。開場、30分前。
▽スタッフ: 作: 乾緑郎。演出: 秋葉舞滝子。演出補佐: 河嶋政規(プロペラ☆サーカス)。舞台監督: 小沢真史。照明: 南出良治。音楽: 羽山 尚。音響: 齋藤瑠美子。美術: 田中新一、木家下 一裕。
▽キャスト: 児玉野江(児玉家の養女): 最上桂子。児玉早苗(野江の姉): 齋木亨子。児玉美香(娘):秋葉舞滝子。松永英雄(野江の夫): 牧野達哉(銀鯱マスカラス)。伊丹(元探偵): 神戸誠治。三島裕彦(ジャーナリスト。英雄の友人): 野村貴浩(劇団め組)。河原(三島の助手): 戸谷和恵。
▽日替わり出演: 岩淵(伊丹の部下): 星達也、河嶋政規、目崎剛(+1)。青野(美香の彼氏): 保倉大朔(uncle jam)、小野坂貴之、目崎剛(+1)、金澤洋之(劇団MMC)

▽よい。好作。上演時間約90分、適切な密度でたるみなく、心地よく持続する緊張感。見事と称すべき。ずば抜けているわけではないが、ハイレベルに安定した舞台。観るに堪える。舞台は畢竟、役者なのだ。劇団SPIRAL MOON第18回公演。
▽デジャヴDéjà vu(既視感)。ジャメヴjamais vu(未視感)。カプグラ症候群。DV。電話。記憶。懲役刑。母と子。彼氏と母親。落花生。横田基地。航空機の音。インベーダー(侵略者)。バナナと伊丹。子をもつこと。落花生の偶然。照明。
▽舞台設計。バスルーム、戸外、リビングの3セットが左から順に並ぶ。左右の室内は、一段高くなっている。それぞれを往還する俳優たち。照明の切り換えも合わせ、空間と時間を横断してみせる鮮やかさ。役者が閾をまたぐ、その瞬間に時空は超えられている。またぎ越える、たったそれだけのアクションが観客に与えるインパクト。演技する身体の決定的な実在性。ほとんど快感を覚えさせる。英雄と美香、往還する視線。美香の記憶を通じて、過去の英雄と現在の美香がシンクロする。世界の間接性。2つのシーンが同時進行するパートあり。おそらく客席位置によって見え方が変わる。
▽脚本。台詞回し、上手い。人間を描く繊細さと明快な造形力。舞台的に誇張されながら、なお保たれるなめらかさ。早苗の示す率直な爽やかさ。それは妹の仮出所の身許保証人を断るといった卑小な行動への自己評価においてすら、貫徹されている。伊丹、強請屋の男。見事にはまったキャスティング。
▽どの俳優もよくできている。設定年齢と実年齢の差で苦しいのは19歳の娘・美香役の女優。後半になると観客も慣れてくるのだが。英雄の最初のDV描写。赤い唇が悽愴できわめて印象的。素晴らしい。齋木亨子(SM)氏、出演。さばけた母親を好演。気持ちのよい強さをもつ女性がよく似合う(語弊のある言い方だが「男らしい」立ち居振る舞い。あるいはハードボイルド)。なお、齋木氏のSPIRAL MOON出演は2006年の第14回公演「サクラソウ」以来、2年ぶりとのこと。
▽「SOLITUDE」は「第14回 劇作家協会新人戯曲賞」最終候補5作品に選出(受賞作は2008年12月14日発表)。5作品の脚本は『最優秀新人戯曲集2009』(ブロンズ新社)に集成。
▽12月2日19:30-公演をK氏と(岩淵役を河嶋政規、青野役を目崎剛)。舞台下手、最前列にて観劇。受付で従来の公演DVDの他、脚本を販売。K氏、風邪。終演後すぐに解散。渋谷センター街BOOKOFFへ独行(クラブクアトロ下)。

▼SPIRAL MOON(スパイラルムーン)
http://www.spiralmoon.jp/
下北沢「劇」小劇場
http://www.honda-geki.com/gekisyogekijo.html
日本劇作家協会|第14回 劇作家協会新人戯曲賞 最終候補作発表
http://www.jpwa.jp/main/inform/10new055.html

▽伊丹の語り口。去り際、バナナの話からフルーツ店の話へ。事件当時、店から見えていた風景(雨中に傷だらけで電話をかける女)。風景をどこから眺めるか。美香から見える風景、早苗から見える風景。三島から見える風景。特定の客席から見える風景(観客の目の前には、リビングがあるだろうか? 殺人現場があるだろうか?)。世界の遠近法について。

▽児玉早苗。美香の母。野江の姉。離婚(野江によれば、美香を養子に迎えたことで、夫や夫の親族と不和になったのだという)。早苗の言動が、沈鬱とした物語にすずやかな空気を導く。青野(美香の彼氏)をめぐる対話。自己を客観視する能力の持ち主。彼女は失敗する。だが、自らの失敗を直視し、それを抱えてゆくことができる。他者へ怒りちらしながら、その怒りのある部分が本来、自分自身に向けるべきものであることを認識することができる。爽やかさ。率直さがもたらす軽妙な語り。美香に対する元夫の発言について、「あの野郎…」。自己の生き方を貫徹するスタイル。三島に言う、「美香と野江を会わせるなら、私に見えないところでやって」。ハードボイルド。

▽三島。ジャーナリスト(ルポルタージュ・ライター?)。英雄の友人。助手に河原。事件の数年後に野江の存在を知り、監獄に手紙を送る。興味本位(好奇心)からのスタート。人間に憑かれること。野江という人間のたたずまいに魅せられる、そのリアリティ。
▽伊丹。トレンチコート姿の元探偵、強請屋。バナナ好き。キャラクターの存在感、すばらしい。当初、彼が何をしているのか、何者なのか、今ひとつ明確でなく、トリックスター的たたずまい。伊丹の目的。妻39歳、10年にわたる不妊治療の末に妊娠。自分の子供が産まれる。そのことによって伊丹の世界は変容している。野江の行動は理解に苦しむ、と未来における子の到来を抱えた伊丹は言う。同じ状況下(子供がいる)にある自己との比較、類推。世界はすべて各自の自己に引き寄せられ、語られてしまう。伊丹の転向は、おそろしいほどに通俗的であり、その通俗性こそが私たちの現実であり、舞台はそのリアルを写しだすことになる。
▽とすれば、「わからない」を延々と繰り返す三島の態度の誠実さが評価されるべきなのか。早苗の、伊丹の、河原の問いに、そして野江の問いに対して繰り返される「(自分でも)わかりません」、そして沈黙。三島は世界の複雑性を安易に縮減しない。“最後の一言”をほぼ口にしない三島の態度には、世界に対するある種の「誠実さ」がたしかに孕まれている。三島の演技には懊悩が存在する。
▽にもかかわらず。三島の振る舞いに覚える違和感。それは、野江へのコミットがありながら(彼はすでに「行為」しているのだ)、それがないかのように振る舞う無責任、という点にかかっているのだろう。傍観者たり得ぬ者がまるで傍観者であるかのように振る舞うこと。当事者が当事者でないかのように振る舞うこと。それは汚い。それは卑劣である。(たとえば。伊丹との会見時、河原のICレコーダーのエピソード(録音は河原の一存でなされていた)に示されるように、三島は批判されぬ「安全」な位置に立っている。彼は「知らない」のだ。ゆえに許される。そこにある虚偽、隠蔽。伊丹はそこを衝くのだが、追及は徹底されない。)

▽松永英雄のカプグラ・シンドローム(Capgras症候群)。精神病理の安直。それは所詮、デウス・エクス・マキナとも呼ばれるべきものだ。
▽むしろ注目すべきは、その娘である美香の心理だろう。劇の中盤で美香が告白する、自らが母の胎内にいた時期の両親の言動に関する、あまりに明瞭な「記憶」(やがて破滅へと至る二人の)に中学生の頃から悩まされていたという設定は、現在時19歳に至る彼女の心が歩んできた歴程を想像するに慄然とする。彼女は「父殺し」の明瞭な記憶を抱えているのだ。もっとも、この作品ではこの問題系はちらりと暗示されるのみで、後景へと沈み込んでしまうのだが。
▽美香に早苗(育ての母)と野江(生みの母)の影をいかに落とすか。先天性と後天性。血統主義(血はすべてに優越する)の安易と危険。早苗は美香に対して「そういう言い方、野江(母親)そっくり」と語る。実の母と美香の繋がりを屈託なく描いてしまうことは、「血は争えない」といった俗諺を補強することになるだろう(夫殺しの母をもつ子は同じく夫殺しを犯すのだろうか?)。まして、父・英雄を継いだかのように、(美香の記憶の)異常性を示した上では。血の物語。だから、エンディングのやわらかなやさしさ、母娘のつながりを示すようなそれは、陰鬱とした英雄と野江のドラマの結末に一服の清涼をもたらす美しい効果にもかかわらず(照明のやわらかさを見よ)、居心地のわるさを避けえない。そこでは血縁のイデオロギーが無批判に受け入れられてしまう。夫をその手にかけるに至った母の航跡を、自らの記憶のうちにたどってきたはずの娘は、その過程で母への“理解”を生んでいたのだろうか。この、血の物語への違和感は、早苗への共感が生んでいるのだろうか。

▽野江の心理描写、浅いように思われる。妊娠。二人の子。生かすための決断。前半、彼女の「沈黙」が強調され、その実態に期待が煽られるだけに。だが、端的に言って、彼女は夫を殺すのではなく「病院へ連れていくべき」である。相談できる相手がいなかったこと、が問題なのか。それが早苗との関係で示されるのか。他の描写はない。地元コミュニティにおける彼女の立ち位置も示されない(伊丹の語る逸話から、コミュニティに溶け込んでいなかったことは明確だが)。彼女自身が病者との閉塞した生活に追いつめられ、病的たらざるをえなかった、のか。英雄を精神科に連れて行かなかった理由がこの劇には存在していない。
▽精神病は〈外部〉である以上、描写する価値は、ない。意義があるとすれば――劇中の三島の台詞に示されるように――それに遭遇した(そして逃げ出すことのできなかった)野江がかような世界を如何に観じているか、だろう。「大切な人が別の世界に行ってしまう、それをただ見ているしかないとは、どういう経験なんだろう」。そこにある絶望の質。
▽精神病理に対する態度。およそ平成元年(1989年)と、舞台となっている時期が示されている。医療関係者の周知努力の不足、として読まれうる。あるいは「田舎」的な閉じたコミュニティへの批判的視線(バナナを売る店の店主の介入せぬ振る舞いを見よ)。cf.野田正彰『クライシス・コール :精神病者の事件は突発するか』
▽「カプグラ症候群」で、山崎邦紀監督作品「変態奥様 びしょ濡れ肉襦袢(旧題:和服夫人の身悶え ソフトSM篇)」を思いだす。

▽野江を最後まで「沈黙」させたまま、この劇を語ることは可能だろうか。彼女が何かを語ったところで、それは〈真実〉を指し示しえないのではないか。彼女の「本当」は、じつのところ、彼女の沈黙によってしか語りえないのではないか。むしろそうあってこそ、この劇の真価は示されるのではないか。
▽ラストの野江と三島の対話。どの部分が実際に口に出された部分であるかは分からない。しかし、それは観客に対して野江の真情を“語って”しまっている(“歌っている”とまでは言うまい。そこに羞じらいは存在している)。三島は、野江を理解できないこと、分からないことに絶望すべきなのだし、分からないというまさにそのことに人間の尊厳を感得すべきなのだ。

▽バスルーム。床に落ち葉を散らすだけで、見える時代が変わる。
▽異様な俳優、K氏が妖精系(美形なわけではないが、異常にフォトジェニックな女優)と呼ぶような存在感を示す役者はいない。かろうじて伊丹(神戸誠治)か。ある水準を越えない芝居では、そうした俳優の存在は不可欠だが、この舞台は見られる。