ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

映画「時をかける少女」(細田守)〔2006.11〕

▼「劇場版アニメーション 時をかける少女」。2006年。日本。角川ヘラルド。2006年7月25日公開。
▽スタッフ: 監督: 細田守。脚本: 奥寺佐渡子。美術監督: 山本二三。CG: ハヤシヒロミ(Spooky graphic)。音楽: 吉田潔。キャラクターデザイン: 貞本義行。原作: 筒井康隆時をかける少女』。
▽キャスト(声優): 紺野真琴(主人公): 仲里依紗間宮千昭石田卓也。津田功介: 板倉光隆。芳山和子(魔女おばさん): 原沙知絵紺野美雪(妹): 関戸優希。早川友梨(友人): 垣内彩未。藤谷果穂(ボランティア部の少女): 谷村美月


▽好作。よくできている。アニメートの快楽。絵コンテ作家の能力。テクスチュア、古くならないタイプ。
▽博物館の空気。東京国立博物館。背景美術の力。そこにある歴史。坂道。“萌え要素”。タイムパラドクスの不在。彼女は「過去を変えた」のか「未来を変えた」のか。魔女おばさんの物語。リセットされる世界。可能世界(代償によって存在する)。


▽鶴見H氏と。川崎109シネマズ。パンフレット売切にて購入できず。
時をかける少女 http://www.kadokawa.co.jp/tokikake/


▽よくできた表層、それによって覆い隠される違和感。しこりのように残る飲み込めなさ。
▽反倫理的な作品であること(反-倫理的? 非-倫理的? おそらく前者である)。罪責。罰。ヒロインに課される“罰”は、彼女の行った(と本人が信じている)ことに対してあまりに小さい。「取り返しがつく」ことの恐ろしさ。


▽だが、はたして彼女にふさわしい責罰は存在するのか? いや、存在しうるのか?
▽たとえばハンムラビ法典の昔に帰り、ヒロイン真琴が、彼女になぶられ弄ばれた彼ら/彼女らと同じ目に遭ったとして、それは妥当な量刑と言い得るだろうか(記憶の消滅は「罰を受けない」ことを意味するのか?)。ヒロインたる紺野真琴への「罰」として、観客における罰として。

▽(仮に名もなき脇役たちに生じたのと同じ現象が「罰」として真琴に与えられたとしても、その罰(罪に対して支払われた代償)は、“観客”である私にとってのみ、存在することになる。なぜならその時、自らの罪に対して与えられるその罰によって、真琴自身は罰を受けた記憶を把持することができないのだから。)


▽〈記憶〉という倫理。
▽私たちの倫理は「記憶」によって担保されているのだろうか。「記憶を失うこと」と、「記憶をリセットする(なかったことにする)こと」、その差違。(しかし、そこに差違はあるだろうか?)
▽〈存在〉することの聖性。「かけがえがない」ということ。この作品では個我の「かけがえのなさ」、存在そのものが冒瀆されているのだ。
▽千昭による干渉(の罪)。因果の遡行。その場所で、真琴のあがき(死からの逃亡)は弾劾さるべきか。だが誰によって? 観客によって? そして、そもそもそれ(生命への真琴のすがりつき)は指弾さるべきか? その権利を持つ者は誰か?


▽ヒロインに翻弄される彼ら/彼女ら(“脇役”たち)に、彼女にそのかけがえのない生をもてあそばれ続けていることへの自覚は、生じえない(「歴史」は書きかえられてしまうのだから)。
▽目撃者も存在しえない。かれらは、自らの存在(生の一回性)が決定的に「否定」されたことに気づくことができない。かれらは気づく権利を、つねにすでに奪われている。

▽逆にいえば、かれらは「傷つくことができない」。傷つくことが許されていない。かれらにとって、ヒロインによって否定された生の経験は、端的に「存在しない」のだから(それは「忘却」ですらない)。そのことの持つ意味を捉えること。
▽ならば、それはいかなる意味で、何に対する「罪」なのか? それは罪と呼ばれるべきものなのか。(真琴の犯した罪の結果は、彼女のその行為によって「被害」を受けている当事者によって気づかれる可能性が、原理的に存在しない。)
▽“存在しない”罪。それは「罰」が与えられるべきものなのか? あるいは、「罰を与ええないこと」を作品として提示する(示す)行為は倫理的である、と考えうるのだろうか?


▽だが、罪が存在しえない、そもそも誰も傷つくことができない、許されない、という一点こそが、「時をかける少女」というアニメ作品の最も、そして致命的に不快な点である。ここで我々に問われているのは「(社会的)道徳」ではない。おそらく「倫理」と呼ばれるべきものだ。
▽(そこに問題がある、と示すことが「作り手の意図」である可能性はありうるだろうか?)


▽〔追記:このエントリーは、次のブログ記事に刺激されて発掘した。〕
 →▼「軽い」時をかける少女〔2007-04-24〕 - すちゃもく雑記 http://d.hatena.ne.jp/beniuo/20070424/1177425773


ハンムラビ法典 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%93%E6%B3%95%E5%85%B8
「「目には目で、歯には歯で」との記述は、ハンムラビ法典196・197条にあるとされる(旧約聖書新約聖書の各福音書にも同様の記述がある)。しばしば「目には目を、歯には歯を」と訳されるが、この条文の目的は同害報復を要請するものではなく、無限な報復を禁じて同害報復までに限度を設定することであるので、誤りである。195条に子がその父を打ったときは、その手を切られる、205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られるといった条項もあり、「目には目を」が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけであった。」