ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

住田町作業:上有住、五葉山神社

▽上有住。五葉山神社。
▼住田町作業:上有住四年祭 - ilyaの日記blog http://ilya.hatenablog.jp/entry/2013/05/05/004636

▼上閉伊・気仙 地区 式年大祭 一覧表|みちのく芸能ごよみ http://www.h3.dion.ne.jp/~iwagei/sikinen.htm

 

▼五葉山神社|岩手県神道青年会 http://www.ganshinsei.jp/sumitachou/622goyouzanjinja.html

▽「御祭神: 大山祇命/保食神/譽田別命」「例祭日: 9月15日」「宮司名: 佐々木嘉子」「鎮座地: 〒029-2501 気仙郡住田町上有住字八日町30番地」
▽「大同二年(807)坂上田村麻呂が勧請する所という(気仙郡風土記・御封内絵図・附録・御出馬按内記により明らかである)。/ 延喜式神名帳に、陸奥国気仙郡奏太手神社とあるは、当五葉山神社であって、社名を変更したのは、両部の手で祭祀を奉仕する様になり、自然、山の名を以て社名とする様になり、神号を五葉山大権現と称し奉るようになったためである。/ 伊達政宗公が当地方領有以来、歴代藩主当社を深く崇敬され、元禄年間(1688-1704)には、藩主伊達吉村公家臣、郡司河東田長兵衛をして、社殿の造営を行わせ、気仙郡総鎮守と奉称するよう定められた。/ 宝暦四年(1754)時の大肝煎村上与治右衛門は、各村肝煎の協力を得て、本宮三社外社殿一宇を奉造した。/ 寛政三年(1791)時の大肝煎吉田宇右衛門が本願主となり、郡中各村々より寄進をうけ本宮石宝殿一宇を奉造し、同年八月大肝煎は郡中各村の肝煎を従え登山し祭祀を斎行した。/ 文化十年(1813)九月、五葉山沿麓の上有住・唐丹・日頃市各村の肝煎相謀り、石宝殿を再営した。/ 慶応元年(1865)大肝煎吉田伝之助尚康が願主となり、郡中の寄附をうけ石宝殿を補修し、その他の新造を行った。/ 明治五年(1872)二月村社に列格。大正十一年(1922)十二月、無格社八幡神社を合祀する。」〔※おそらく五葉山神社の案内書きからの転記。別ブログに同文転載あり。〕

▼上有住・五葉山神社|住田町|今も残る気仙大工の仕事|いわて気仙・匠の里 http://www.epix.co.jp/kesendaiku/takuminosato/imamonokoru/sumita/goyou3.html
▽「上有住・五葉山神社/ 有住城(八幡館)の一部にあり、重要な拠点であった。」「住田町上有住字八日町31/ 建築年:〔空欄〕/ 見学の可否:外部のみ可」「蝦虹梁〔えびこうりょう〕/ 外観」

 

▼偏平足: 石仏327五葉山(岩手)〔2011-07-01〕 http://henpeisoku.blogzine.jp/asi/2011/07/327_1a85.html
▽「〔略〕/五葉山山頂の一角には大きな石祠(台座も含め高さ約260センチ)が住田町を向いて建つ。かつてあった五葉山三ノ宮(虚空蔵の西の宮、阿弥陀・薬師・観音の中の宮、愛染の東の宮)が大破した跡に、寛政三年(1791)上有住村の別当や肝入が中心となって建てた葉山大権現の石祠である。これが明治以後日枝神社となった(住田町史第四巻)。/〔略〕」

 

▼上有住~花あふれる神々の地~|SUMITA好いネット http://ww51.et.tiki.ne.jp/~tegumu/html/pages/kamiarisu/kamiarisu.html
▽「神社・寺院/ 【八幡神社】 ◆八日町の西、八幡館にある。城主は千葉家の氏神であったが草創は不詳。大正11年12月五葉山神社と八幡神社が合併した。以来、神社名は「五葉神社里宮」と呼ばれている。」
▽「祭りと芸能/ 【五葉山神社四年祭】 ◆四年ごとに五葉山神社のお祭りが、九月第三週(祭日九月十九日)の頃に里宮である八日町地域で開催される。/ 五葉、天獄、八日町、恵山、坂本、両向の六地域が祭組を組織し、見事な装飾で彩られた山車と、郷土芸能を披露する。/ 平成18年度〔2006年度〕祭り詳細→『管理人日記』」

▼住田を尋ねて〔平成元年(1989年)4月22日〕|思い出の記|佐藤写真館 http://www.sato-photo.jp/pages/memories/h010422.html
▽「JRバス駅で上有住駅行に乗車した。八日町入口の橋のたもとで下車して、橋を渡れば右に杉木立の森が目につく大きな神明鳥居がある。村社である事はすぐわかった。しかし、世田米の天照皇大神宮と鳥居が違うので、不審に思った。皇大神宮の方は神明鳥居だ。やがて、表参道の石段を二十段ほど登って拝殿前に着いた。/ 人影はないが、無断で扉を開き、神前にて拝礼した。見上げれば金文字で立派な額に「五葉神社」と彫刻されていた。/ 内外を撮影して、第一の目標狛犬の姿を求めて境内中探したが、ここには狛犬は無かった。五葉神社は、大船渡市の日頃市町村社もなぜか狛犬が無いのだが、どうして五葉神社には狛犬が無いのか不思議だ。」

▼五葉山:岩手県の山紀行(2000)|山岳信仰の山 http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/iwate.htm#20
▽「五葉山(1351m 岩手県大船渡市)/ 地形図〔 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=391220&l=1414355 〕/ 「二つの神社の奥の宮がある」/「仙台藩の御用山が五葉山になった」/ 国道340 で住田町に入る。中心部がないように広がった町。大船渡市の関谷から五葉山登山口の標高712mの赤坂峠に7:15来る。鳥居、駐車場やトイレがある。」
▽「〔五葉山は〕かってはヒノキが多く檜山といった。江戸時代は、仙台藩の御用山で、優良材を供給した。御用山が五葉山となった。/ 山頂の日枝神社は久安元年(1145)日頃市村の修験者行泉坊泰円が日吉神を勧請し開山した。日吉神は大山咋命を主祭神とする。以来修験の山として登山された。大正7年、日頃市に里宮を建て、山頂が日枝神社奥社になった。/ 一方住田町上有住から登山口には、大山祇命を祀る五葉山神社がある。上有住の五葉山神社は大同2年(807)坂上田村麿呂が勧請し、延喜式に乗る古社。元は奏太手神社といった。五葉山と言うようになったのは、藩政時代以降であろう。その奥の宮は山頂尾根にやや離れてある。上有住五葉山神社は檜山コースを登れば五葉山神社奥宮に着く。/ この両社は混在しているようで、また区別もなかなか難しい。主祭神は大山咋命と大山祇命で、似ているようだが違う。/ いずれも山神、農耕神、漁業神として信仰された。」

 

八幡神社か五葉山神社里宮か…上有住城跡〔2010/11/26〕 - 奥羽*温故知新 - Yahoo!ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/27379180.html
▽「五葉山神社里宮…そして…/ 気仙郡住田町上有住字八日町/ 御祭神 :大山祇命・保食神・譽田別命」
▽「由緒/ 五葉山神社の奥宮は霊峰・五葉山の山頂にあり、大同二年(807)に征夷大将軍坂上田村麻呂が代々の国主と国家の安泰、武運長久の祈願所として建立したと伝えられている。(気仙郡風土記・御封内絵図・附録・御出馬按内記)/ 延喜式神名帳に、『陸奥国気仙郡奏太手神社』とあるは、当五葉山神社のことであって、社名を変更したのは、両部の手で祭祀を奉仕する様になり、自然、山の名を以て社名とする様になり、神号を五葉山大権現と称し奉るようになったためである。/ 伊達政宗公が当地方領有以来、歴代藩主当社を深く崇敬され、元禄年間(1688~1704)には、藩主伊達吉村公家臣、郡司河東田長兵衛をして、社殿の造営を行わせ、気仙郡総鎮守と奉称するよう定められた。/ 宝暦四年(1754)、時の大肝煎村上与治右衛門は、各村肝煎の協力を得て、本宮三社外社殿一宇を奉造した。/ 寛政三年(1791)、時の大肝煎吉田宇右衛門が本願主となり、郡中各村々より寄進をうけ本宮石宝殿一宇を奉造し、同年八月大肝煎は郡中各村の肝煎を従え登山し祭祀を斎行した。/ 文化十年(1813)九月、五葉山沿麓の上有住・唐丹・日頃市各村の肝煎相謀り、石宝殿を再営した。/ 慶応元年(1865)大肝煎吉田伝之助尚康が願主となり、郡中の寄附をうけ石宝殿を補修し、その他の新造を行った。/ 明治五年(1872)二月村社に列格。/ 大正十一年(1922)十二月、無格社八幡神社を合祀する。/ 【案内書きより抜粋】」
▽「南北200メートル、東西100メートル、高さ50メートルの小山が城郭のすべてで、八幡神社の祀られている山頂 が本丸跡と説明されている…。/ 説明通りだと、この境内が本丸となる、ちょっと狭いような気もします…」

 

▼件名: 五葉山登拝 ( No.[34]14 )/日時: 2012/09/16 17:34:28/名前: 御津垣|【北海道・東北】神社・御朱印情報 part2|関東の神社めぐり プチ神楽殿掲示板 http://www.kaguraden.net/patio/regist.cgi?mode=mente&f=34&no=14&bak=0
▽「〔略〕/ さて、今回の登山の目的は、式内 衣太手神社の論社である『五葉山神社』への登拝である。/ この五葉山神社、少々説明が面倒である。山頂に近い方には、『日枝神社』が鎮座しており/ 黒岩に近い方に、『五葉山神社』が鎮座している。/しかしながら、登山道の案内図には、両方ともに『五葉山神社』とある。地図が間違っているのかというと、そういう訳でもないのである。/ というのは。。。/五葉山三社といわれるように複数の神社が関係しているからである。/ (1)住田町の五葉山神社。 (2)大船渡市日頃市町の五葉山神社。 (3)大船渡市立根町の五葉神社。/ (1)の五葉山神社は、黒岩近くの五葉山神社を本宮としている。/ (2)の五葉山神社は、かつて五葉山日枝神社の名称であって、現在は五葉山神社と改称している。本宮だった『日枝神社』は、奥宮となりそのままの名称で残っている。(往古は違う場所にあったようであるが。。。山王神社のところ?)/ そんな訳で、必ずしも間違っている訳ではないのである。/ 〔略〕」
▽「その後、ちょっと遠いが、住田町の五葉山神社に。到着する頃には、大分 日も暮れてしまった。町の里山中腹に五葉山神社拝殿。その上 山頂には八幡神社の本殿。/ 扁額が出ていないので、どっちが五葉山神社なの? という感じである。社務所に電話して、詳しく説明してもらってから参拝。御朱印を分けてもらいに社務所に向かう。/ そこで、見たことない朱印帳を発見。へ~、こんなのあるんだと、こちらの帳面も分けてもらう」
▽「余談: (3)の五葉神社 総代さんに聞いた話だが、どうやら衣太手神社には五社あり、衣太手神社五社と呼ばれているようである。遠野の方で調べている方がいるという。/ 一つは氷上神社。三つは五葉山神社。あと一つは五葉山を衣太手神と見立てて釜石側にあるかもしれない口の宮かな~。と考えたが、後日Webで調べてみたが違うようである。正直、余り興味を引かなかった(すいません)が、いづれ火が着くかも知れない。備忘録として、紹介としてここに記載しておく。/ 管理人:風琳堂主人/ ブログ名:千時千一夜/ 記事名:遠野郷天女伝説の故地──三陸町綾里・綾織姫大神 http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/31028779.html

 

▼山へ祈る、詣でる|いわての歴史シリーズ5 山とともに|岩手県立図書館 http://www.library.pref.iwate.jp/ex/iwate05_yama/yama/inori01.html
▽「〔五葉山神社石棟札拓本〕/請求記号:21.9/13/75/ 住田町の五葉山山頂付近にある五葉山神社の社殿扉にある銘文の拓本。江戸時代まで五葉山権現と呼ばれ、五葉山西麓にあった〔万禄山大泉寺が 別当をつとめていた。気仙郡総鎮守とも伝えられ、寛延3年(1750)に別当の十郎右衛門が気仙郡大肝入の吉田宇右衛門に大破した社殿の造立のため盛岡藩 領境の御林の払い下げを願い出た。吉田宇右衛門が願主となり郡内各村から寄付を集め、寛政3年(1791)に石ノ宮を建立した。/ 資料の詳細〔 https://www.library.pref.iwate.jp/opac/wopc/pc/pages/SearchResultDetail.jsp?srv=&id=01603123 〕」

 

▼偏平足: 石仏327五葉山(岩手)〔2011-07-01〕 http://henpeisoku.blogzine.jp/asi/2011/07/327_1a85.html
▽「〔略〕/五葉山山頂の一角には大きな石祠(台座も含め高さ約260センチ)が住田町を向いて建つ。かつてあった五葉山三ノ宮(虚空蔵の西の宮、阿弥陀・薬師・観音の中の宮、愛染の東の宮)が大破した跡に、寛政三年(1791)上有住村の別当や肝入が中心となって建てた葉山大権現の石祠である。これが明治以後日枝神社となった(住田町史第四巻)。/〔略〕」

 

▽関連:

▼霊峰五葉山:いわてのこんなところ|いわて医師協だより 2003第48号 http://www.ginga.or.jp/~isikyo/tayori/48/07.htm
▽「気仙医師会/県立住田病院 佐藤芳行」「〔略〕/五葉山は昔より当地方の人々から霊山として厚い信仰を寄せられていた。山頂には延暦20 (810) 年に創建されたという五葉山日枝神社があり、天照大神など5柱の神々を奉っている。五葉山神社を気仙総鎮守と定めたのは、 蝦夷征討の際の坂上田村麻呂だと伝えられている。 ところでこれも前記碩学より拝聴したのだが、 大船渡の隣町に下船渡がありここの昔の名は下大船渡であったとの事、また住田町には上有住 (カミアリス)、 下有住 (シモアリス) の町があるが、これらの町名の 「上」、「下」 は京都や平泉に対してではなく、まさにこの五葉神社〔五葉山日枝神社〕からの位置関係に由来するとのことであった。五葉神社は斯様に歴史があり、また数少ない式内社とされている。/〔略〕」

▼PDF:「五葉山の魅力」(49) 五葉山神社での結婚式〔東海新報2009年8月9日〕 http://ww91.tiki.ne.jp/~narachan/essay/esaay049.pdf