ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

「五葉小学校」の歴史:2010年05月01日

▼コラム 気仙坂|東海新報 http://www.tohkaishimpo.com/scripts/column2.cgi
「味」のある施設に ☆★☆★2010年05月01日付

 住田町上有住。気仙川をさかのぼるよう車を走らせ、曲がりくねった狭い道路が少し開けたころ、どこか懐かしさを感じさせる赤い屋根の木造の建物が目に飛び込んでくる。深い緑、赤や黄、純白と季節ごとにさまざまな表情を見せる山、とうとうと流れる川を背後に建てられた、旧五葉小学校舎だ。
 近年地区公民館として使われてきたが、この春、同じ木造ながら近代的な建物に生まれ変わり、このほど落成式や祝賀会が執り行われた。
 旧五葉小学校は昭和25年4月、上有住村立上有住小学校中埣文教場から五葉小学校として独立し、創立された。校舎は当初、金の倉地内にあったが、27年に木造2階建てで中埣地内に移転新築された。
 小学校設置を強く望んでいた地域住民が、土地や木材を提供、ボランティアとして建築に参加したことなど、当時の住民たちの情熱は、今なお語り継がれている。
 同校にはその後、29年に五葉中学校(48年有住中と統合)、46年には幼児教室(平成8年廃止)が併設された。51年に校歌、55年には校章を制定。平成5年には新体育館が完成した。
 昭和40年代前半までは100人を超す児童が在籍していたが、その後は減少の一途をたどることに。
 人数不足により平成10年からは運動会も中止されるなど、学校行事に支障が出た。授業は1・2年生、3・4年生、5・6年生の完全複式学級制となり、野球やバレーのスポ少活動もチームを編成することができない状況になっていった。新入学児童がなかったり、あっても1人か2人で推移する見通しが強まっていた。
 事態を憂慮した町教委は同13年、PTAと学校のあり方について協議。PTA会員から「地域のシンボルともいえる学校がなくなるということはつらいが、子どもたちの教育環境充実を」との強い要望を受けるなど、その後複数回の協議を経て上有住小学校と統合する方針をまとめ、町議会で可決された。
 統合は翌14年4月に行われ、町内は世田米、下有住、上有住の3校体制に移行。現在は下有住と上有住も統合され、世田米、有住の2校体制となっている。
 入社間もないころ、閉校式の取材を手伝った。いただいた資料の中に歴代の教職員名簿があった。自分にゆかりのある、かつて教師をしていた人の名前を見つけた。ついこの間までは子どもたちの声も響いていたであろう校舎内も見学し、部外者のこちらまで感傷的になったのを覚えている。
 先日は、同校で校長を務めた方とお話しさせていただく機会もあり、その方に五葉小の思い出を尋ねてみると、「20分ぐらいの業間休みになると生徒たちが川に入って魚を捕まえ、職員室の窓をたたいて『先生、食べて』と言ってきたもの。子どもが子どもらしくあることのできる学校だった」と、目を細めながら振り返っていたのが印象的だった。
 同校は閉校後、地区公民館に用途替えされた。しかし、2階部分への立ち入りが禁じられるほどに老朽化が著しかったことから、当初から地区では町へ建て替えを要望。「景観や地区の歴史から残しておきたいのは確かだが、公民館として使うからには安全性が第一だ」。そうした声が、同地区で開かれた町議会との懇談会席上、出席住民から少なからず聞かれた。
 建て替えのための解体工事が昨秋から始まり、今年3月、真新しい公民館が落成。木造平屋のこれまでに比べコンパクトな建物に生まれ変わり、町消防団6分団3部屯所も併設されるなど機能も充実した。
 東を釜石、南を大船渡、北を遠野市に接し、五葉山や滝観洞を擁する同地区。自立持続を目指し住民と行政協働のまちづくりをうたう町にとって、多彩な資源と人材の宝庫といえる五葉の役割は今後ますます重要になってくるだろう。地域づくりの拠点として、新しい施設がしっかりと根づき、あの校舎以上に「味」を出してくれることを楽しみにしたい。(弘)