ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

映画「鳳鳴」(王兵)〔2007.12〕

▼「鳳鳴(フォンミン) :中国の記憶」。2007年。中国。183分。中国語。カラー。ビデオ。原題:「和鳳鳴」 ★★
▽スタッフ: 監督: 王兵Wang Bing。

▽秀抜。驚くべきドキュメンタリー映画。3時間、みずからの来歴を語り続ける女性(和鳳鳴)を映し続ける。それが観るに堪える映画になりうること。怪作にして傑作「鉄西区」監督の最新作。
▽冒頭、アパートへ歩む和鳳鳴の後ろ姿をじっくりと追跡する以外、ほとんどがアパートでソファに座って語る彼女を正面から捉える固定カメラ。カット割りはほんの少し。「自分に話すように話すわね」。時間経過。ラストは机に向かう彼女の後ろ姿を撮っている。(「鉄西区」にあった運動の廃棄。)
▽涙声と見えない涙。秘められる嗚咽。歴史を生きること(悲惨な歴史の証言者が生存しているということ)。飢えること。飢餓の経験者。生き残るための闘争。“生命を保つこと”が目的になりうる状況。洞窟。残された布団。持ち主は死んでいるのだ。そして、布団に包んでの埋葬すらされなかった(粗略に埋められた)。揚げパンを、美味い、美味い、と言いながら食す青年たち。「右派」から「レッテルが外れた右派」へ(笑えないコメディ!)。蘭州。
▽反右派闘争、文革。迫害。女性の地位。たとえば敗戦後の日本に、こうした女性が存在しえた確率を考えよ。反右派闘争の歴史的評価(初発の意図は正しかったという語り)。革命。政治の国。
▽部屋が暗くなっていく。フレーム外から「電気を…」とカメラマン(=監督)の声がする。その瞬間の決定的な快楽(映画的快楽?)、鮮烈な印象。トイレに立つ。電話がかかる。日付の変化。和鳳鳴が書いているテクスト、その徹底的な排除。冒頭、きゅっきゅっと鳴るサンダル。


アテネフランセ文化センターにて。蓮實重彦の短い講演付き(大遅刻した蓮實御大…)。開場1時間前から長蛇の列。完全に満席、立ち見あり。
http://www.athenee.net/culturalcenter/schedule/program/tetsunishiku/tetsunishiku.html


▽ソファに座り、背筋を正して語り続ける女性をひたすら正面から撮りつづけるという、ほとんどありえないカメラワーク。それを3時間にわたって私に見続けさせる力は何によるのか。
▽語られる「内容」のドラマ。政治的批判の回避(体制批判的言説が噴き上がりそうな瞬間を触知させつつ、決定的な時点は訪れない)。感情を抑制して語られる事実の摘示が、力を持っているのか。とすれば、しょせん内容の、物語の力が、この映画の力を担保しているのか?
▽映像の力。「映画」としての評価と「政治」としての評価。この映画にはおそらく知識や事実として未知のことは、ない。すべては既に知られたこと、すなわち〈安全〉なことだ。現在の中国の政治的体制においても、十分に回収可能な言説だろう(もちろん、現時点で和鳳鳴が書物を書いていること、つまり反右派闘争、文革を正面切って批判することが危険のまったく存在しない行為だとは思えないが)。つまり、この映画が(反体制的な)政治的広報行為であるなら、高く評価できるようなものではないはずだ。私たちの無知によって、この映画の驚きは生まれているのか、それとも映画自身の持つ力によっているのか。


▽記憶の価値。記憶を記憶すること、伝承すること。テレビで流されるようなドキュメンタリーとの決定的な手触りの差違。「SHOAH」との比較。「鳳鳴」では、監督の再構成が隠蔽されているのか。
▽中国人観客にとっての映画「和鳳鳴」と、日本人観客にとっての映画「鳳鳴 :中国の記憶」。その現象の差違。〈政治〉の持つ意味が、力が、そこでは変わるだろう。このフィルムは中国で、中国人の手によって撮られた。単純に、音声で理解する観客と字幕で理解する観客における差もあるはずだ。


▽「迫害者」となった側の語りの不在。あえて極論を言えば、もしほんの少し条件が異なっていただけで、おそらくは彼女もまた被害者の側ではなく、加害者の側に回ったのはずなのだ。そうした想像力の欠落(これは「ないものねだり」なのか?)。陳凱歌の『私の紅衛兵時代』が他の文革被害恨み節エッセー群から一頭地を抜くのは、その視点を内包するゆえだろう。『私の紅衛兵時代』には安全さを損なう〈危機〉がある。あるいは、それとはまた違ったかたちで映画「太陽の少年」姜文が拓いた世界。


蓮實重彦の講演。10分ちょっとのほんの短いものになったのだが、見事。メモも何も見ずに、ぴたりと構成し、オーディエンスを映画に引き込んでみせる。エンターテイナーとしての力量。