ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

演劇「眠り王」(The Exile Company TARA)@ウッディシアター中目黒(2008年5月31日)

▼The Exile Company TARA 7th 「眠り王」
http://www.tec-tara.jp/framepage8.html
▽期間: 2008年5月29日(木)〜6月1日(日)。会場: ウッディシアター中目黒。前売2,700円、当日3,000円(リピーター半券提示1,000円)。

▽スタッフ: 作・演出: 原田裕史。照明: 三田弘明。音響: 小島由希子。衣装: 黒川深雪、戸田有紀子。舞台美術: M・小川。宣伝美術: 稲見武。舞台監督: 天津健之。写真撮影: 増原よしお。制作: Office TARA。制作協力: 金子陽子。「The Exile Company TARA(ジ・エクザイル・カンパニー・タラ)」。
▽キャスト: ナナオ(ベッドの少女): 橋本藍子。アマミヤ(天宮;看護師): 齋木亨子。チャッピー自治会副会長): KIYOMI。オカリナ: 下石知美。カラスミ: 名倉順子。フキクソ: 豊田真弓。キタムラ自治会長): 神田武。コッセツ(最高齢の男): 駱 吉徳。ハタモチ(旗持ち;サラリーマン風の男): 上林大介。男4(詩人): 浅野喬之。シニガミ(死神;男5): 岡崎瑶治。ブラックタイガー: 四役 浩。


▽安定感のある舞台。頑張っている。好感。「物語」を語る意欲(下手な批評性に頼りすぎていない)。子供に見せるには悪いものではない。その一方での居心地の悪さ。多くの主題がその存在を予感させながら深められないためか(むろん答えが与えられることが成功の鍵でないしその必要もない、にもかかわらず)。また、ナイーヴな〈善〉への不安。『王になるための単純にして明快なる方法』。
ネム王国。ベッドの上の王国。巨人の肉体としての国土。サラリーマン。シュウカツ(襲名活動)。メタボ。病。聖剣、聖戦。血のもたらすもの、その力。熱狂。恋。セックス。動物。世界のイメージよし(亀の甲羅上の畑、空豆、etc.)。アークの実。うわさ話。
▽身体表現。死神の存在感。群像劇。俳優にそれぞれの存在感をもたらす作り。主題の展開の安全性。提示される多くの主題、問い(たりうるもの)が〈危険〉な水準に達することはない。あと一歩踏み込めば、という消化不良(だが、それが物語る力への傾斜配分によるとしたら?)。展開のテンポの遅さの問題か、半ばほどでダレ、退屈さを感じる。間延びがある。その後、持ち直す。コメディと駄洒落。
▽31日(土)14:00〜の回をK氏と。終演後、喫茶店コロラドを経て「おらい」で会食。

▼TARA オフィシャルサイト
http://www.tec-tara.jp/
▼Welcome to Woodytheatre (ウッディシアター中目黒)
http://www.woodytheatre.com/


▽問い。命名。顔なき者と名を持たざる者。名を拒否すること。手紙。黒ヤギさんからお手紙ついた。監視、パノプティコン(すべてを見通す王の視線)。監視下のプライベート。公共空間の肥大。支配する者、支配される者。王たる者。自らの王であること。王の孤独。支配への欲望。統治。自治会。メンバーシップ。権力。婦長。子供のわがままが許容されること。自己。巨人の身体としての世界。ガルガンチュア、パンタグリュエル。死に対すること。悪の起源。他界からもたらされるもの。烏。排除。クレタ人の嘘。


▽チャッピーのダンス(身体表現)。観客の目を惹きつけること(背後に視線を送らせないこと)。手品の原理。演劇における身体の存在感。現実(病院)と夢想(王国)。天宮さんがナナオを捕まえる。フィクションのリアル。メタフィクションを身体で生きてみせること(理屈ではなく)。一個の身体の同一性は、物語られる世界の位相を超越/貫通しうる。
▽フキクソ。破滅の実を世界に持ち込んだとされる浮浪者風の女。マレビト。
▽死神の論理、弱い。ただし、俳優の存在感で圧倒してくる。死神の論理に力が加われば加わるほど、ナナオが対抗してみせるのは難しくはなるとしても、それが劇に力動を与えうる。世界に破壊をもたらす力を持つナナオ。その傲慢さ。権力の闇。生殺与奪の権を握ることの負荷に気づくこと。責任の倫理。葛藤の弱体。“人殺し”になること。コッセツたちの暴力は否定し、他方で眠り王の暴力を正当化する、その困難を引き受ける覚悟をナナオは持たない。“リセット”の文化。
▽偽善を貫くこと。王国(あるいは王権)の正義そのものを疑うことのない語り。疑義を呈されることなく発される「国民」なる言葉、その内包。「臣民」ではなく。その傲慢への批判は、死神の踏み込まぬ聖域としてある。誘惑者としての死神。自治会のメンバーシップ。非メンバー(フキクソ、死神、眠り王)の排除の上に成立する共同体。排除は“悪”か。自由主義のパラドクス。統治機構としての自治会。
▽一線を踏み越えてしまったコッセツたちが再び王国=社会に復帰することは可能か。メンバーシップを破壊した者。メンバー中に非メンバーを設定し殺戮した者。悪、すなわち分裂をもたらした者。分裂を悪と見倣さぬ原理。分裂を前提とし、それを公共空間において統合する(並存させる)原理が必要とされるのではないか。リベラリズム。近代立憲主義。困難な問いを観客に放りだすこと。イスラームを安易に連想させるマイナス(「聖戦(正戦?)」)。
▽“悪がない”ことと“善がある”こと。コッセツたちの正義(聖戦)を、ネム王国の「善」の内部から批判する理路はあるか。王国の究極の律法の所在。「善意」は〈善〉を結果しない。むろん「悪意」が〈善〉を結果するわけでもないが。
▽「王になるための単純にして明快なる方法」。信頼と恐怖。精神の依存と独立。大人と子供。子供の不在のもつ(あるいは示す)意味。ナナオの「支配者たらんとする欲望」(の病理性)は批評されることがない。だが、その問いを召喚しかねない瞬間は現れている。たとえば、コッセツたちが眠り王の授けた名前を拒否し、聖戦を叫ぶ瞬間。〈公〉がすべてを覆う空間。〈政治〉の普遍化がもたらす悪夢。
▽「私たちは眠り王の子供であり、眠り王もまた私たちの子供である」。
メフィストフェレス。力を与える者。うわさ話。『うわさの遠近法』(松山巌)。


▽日本語。多重性。響き。一般名詞を固有名化する。
▽思い切った身体表現がなされる舞台上の空間、対して客席の狭苦しい空間。その対比。観客の身体の存在を許さない空間。
▽対話(ダイアローグ)の力不足。半ばほどでの退屈は、ギャグでつなぐ“間(ま)”の限界にあるのか。


▼The Exile Company TARA 5月公演!! :夢光年〔役者KIYOMIの感覚日記〕
http://blogs.yahoo.co.jp/tara_kiyomi/22294649.html