ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

演劇「青いカナリヤ」(トルバドール音楽事務所)@デジタルアーツ東京〔2008年7月20日〕

▼トルバドール舞台公演「青いカナリヤ」
▽日時: 2008年7月20日(日)。【A】OPEN 13:30/START 13:50、【B】OPEN 15:20/START 15:40、【C】OPEN 17:20/START 17:40、【D】OPEN 19:00/START 19:20。会場: デジタルアーツ東京9Fホール(池袋)。前売2,000円、当日2,500円。 ※上演は4セット、1日のみ。同じ脚本を、2つのキャストグループで交互に上演。
▽スタッフ: 作: 白土硯哉。演出: 渡部博哉。照明: 廣瀬 翼。音響: 野端一史。主催: (株)トルバドール音楽事務所
▽キャスト: 【A・C】宮野隆矢(主人公)。倉田和宜(黒い男)。釘宮佳子。 【B・D】葛城政典(主人公)田邉真悟(黒い男)。米倉あや。


▽3人だけで展開される舞台。Cセットは楽しめる舞台だった。その場を囲む状況が分からないスタート、次第に置かれている困難な状況が見え、突然現代史上の一場面とリンクする快感。まずまずバランスよく配された笑い。
▽極限状況における孤独が生みだす心理。SF的状況を、現実のある特定の時点に接続させてみせる瞬間、その快楽。だが、それを通して、この脚本家・演出家が観客に示したかったものは何か? 映画のタイトルへの言及(The Phantom Menace)。鳥籠。バレーボールネット。マッチョな(漢らしい)しりとり。山手線ゲーム。
▽Cセット、良し。見ていられる水準。初見ゆえか?(状況の見えないスリルが舞台の質を底上げしたか?) それもあろうが、おそらくそれだけではない。主人公の男とツッコミ男(黒い男)の性格的な差別化が明確に感じられる。俳優の体格も含めて(太り気味で暑そうにスーツの上着を脱いで現れる宮野と、一貫してスーツを脱がない倉田)。倉田の、丈の合わないスーツ姿はいささか疑問ではあるが。掃除人役の女優(釘宮佳子)も、Dセットのそれに比べてセリフも聴き取れ、良いように思われた。だが、掃除人役は脚本構成上、中途半端な存在になっているように思える。なんのために存在するのか。見えるもの、見えないもの。

▽作・演出の白土硯哉&渡部博哉は「Project ONE&ONLY」に所属している様子。
▼Project ONE&ONLY http://www.projectoneandonly.com/


▽Cセット(17:20〜)、Dセット(19:00〜)を同僚SY君と。Cセットを観劇、意外に面白く、別キャストのDセットも続けて鑑賞してみる(Cセットはほぼ満席と見えたが、Dセットは空席が目立つ)。会場のデジタルアーツ東京はアニメ系の専門学校。トルバドール音楽事務所は声優・歌手系中心のマネージメント事務所。
▽俳優。 宮野隆矢、演技が2006年の「コシ」に比してかなり自然になっている。黒い男との対比で、キャラも明確に立っている。田邉真悟のひょろりとした長身、こけた頬、目立つ指。笑みを浮かべると、口の端が頬に切れ込む。神経質な、どこか悪魔的風貌。手指の存在感を生かし切れていないのが惜しい印象。もっと積極的に利用すべきだろう。


▽ラスト、座り込んだ主人公と二人の男女。 Cセットでは舞台中央に並び(?)、Dセットでは舞台奥に並ぶ。その後の身振りもかかわり、二人と主人公の関係の見え方が違っている。Cセットの演出が適切。Dセットでは、時折、ラジオのノイズのような音が流れる。興味深く聴ける演出だったが、意図が掴めず(あるいはCセットでも流れていた音なのだろうか?)。
▽天井から聞こえる崩壊の音。登場人物たちの対応の相違。 Cセットでは、二人の男がともに萎縮しながら下を向く。Dセットでは、黒い男は下を向かない(主人公の男のみ頭を抱えて下を向く)。女性清掃人との対比。また、清掃人からかれらがどう見えるか。Cセットの演技のほうが誇張されているが、理解できる。
▽しりとり(男らしい)や山の手線ゲーム(いやらしさを感じさせるもの)の効用は何か。 ゴールのないゲーム。永遠の存続。時間つぶし。


▽二つの空間。「物語」空間と「舞台」空間の構築。何が起きているのか(物語)。ここは何処なのか(舞台)。
▽冒頭、観客は状況を把握できぬままに放りだされる。俳優のセリフとしぐさを通して、観客の想像力のうちに〈物語〉空間と〈舞台〉空間と、二つの空間のパースペクティヴが構築されていく。その過程を楽しめた。何ものでもない舞台空間が、地下空間として現前し、さらに状況が開示されていく中でその意味を変容してゆく快楽。
▽ex. 舞台上に現れた二人の関係、冒頭の場面に立ち至った経緯、二人が探しているらしいもの(鳥籠の中にいたもの)は何か、二人の仕事内容(配管工)。また、戯曲内部では舞台は屋内であり、天井にはダクトが入り組んでいる環境にある。それが具体的に何処なのかは、展開とともに明かされていく。
▽実際のところ、この脚本はどこまで精緻にその二つの空間の構築をコントロールしえているのだろうか。両者の構築過程が合致する必要はない。タイミング。ミスリード(観客を誤導するテクニック)。


▽精神(自我)の複数化。 三人の「サトウ(佐藤?)」。黒い男、現実から目をそらせ続けるために(現実を見ないために)。女、現実に目を引き戻すために。女もまた、主人公の一面。“現実的性格”と“女性”の安易な接続(批評性を欠くセクシズム)。対話への欲望。2人になることと、3人になること。主人公のいかなる変化が3人目の自己の登場を要請するか。
▽現実逃避。 人間の“弱さ”に対する態度。弱さは悪とされるべきか? 狂気に対する防衛機制(逃避)。現実と向き合うことに価値を見出し、現実逃避を避けるべきことと見倣す態度はしょせん、ぬるま湯に住まう私たちが無自覚のうちに刷り込まれたイデオロギーにすぎない。極限状態における現実逃避を批判する〈権利〉が誰にあるか。死者への冒涜となりかねぬ現実への言及(「343人の消防士」)を施してまでこの戯曲が示さなければならなかったものとは何か。人間にはどうすることもできない状況下で、あるべき態度決定はいかなるものか。絶望に抗して。あるいはそもそも絶対的な絶望に抗することに意味があるのだろうか?
▽ごく普通の「日本人ビジネスマン」というキャラクター設定が否応なく予感させてしまうもの。それによって、いかなる“下駄”を履くことになるか。観客のイメージへのただ乗りと、そうした観客の予断を裏切ることのない批評性の不在。
▽最後に二人が押し開こうとした「扉」は何か。それは天国(冥界)への扉でありはしないだろうか。エレベーターに去った主人公の姿は、すでに狂気を宿してはいなかったか。
▽青いカナリヤblue canary。危険探知機としての。鳥籠の中にいない(おそらくは最初から)。逃げ出したと語られているが、それはすでに死んでいる(カナリヤが生存できない環境)ということでもあるはずだ。
▽笑いにつきまとうある種の悪趣味さは、こうした舞台のお約束なのか。いかに評価されるべきか。「いじめ」にも通じかねないそれ(Cセット)、明白にセクハラを孕むセリフ回し。後者はむろん意図的なものだが(その演出法には疑問(批評性が弱い)もあるにせよ)、前者については、それがいわば“キャラ立ち”を生みだしてもいる。Cセットにおける、黒い男の主人公に対する圧迫。もっとも、黒い男も主人公の一部であるのだから、そうした感受を合理化する構造がビルトインされていることにはなるのだが。


▽Dセットは、Cセットに比べて苦しい完成度だが、田邉真悟(黒い男)の存在感が光った。田邉の挙措を注視することで退屈さに耐えた、というべきか。主役の男はたたずまい、言動があまりに普通すぎる。加えてセリフが聴き取りづらい。ぼそぼそと何を言っているのか分からぬ。耐えがたい。またおそらく、田邊演じる“黒い男”と、主人公の男とのキャラクターの差別化が弱すぎる。Cセットの、内気そうな主人公と、外向的でいくらか暴力的な(体育会系な)気配を感じさせる黒い男のコントラスに比して(それは個人的には居心地の悪い嫌悪感を感じないではないものだが、しかしそれによってキャラ立ちははっきりしている)。むろん、Cセットと同様の対比が絶対的なものではないにせよ(だが、主人公が現実に目を向けないための言葉を“黒い男”がつむぎださねばならぬ点は変わらない)。
▽なお、M氏によると、Dセットのキャストはトルバドール所属のまだ舞台慣れしていない俳優陣であるらしい。