ilyaのノート

いつかどこかでだれかのために。

藤井貞和「短歌のどこがおもしろい!」より抜萃

藤井貞和「短歌のどこがおもしろい!」、最終ページ(p.80)より抜萃。
▽「〔前略〕もう一つ、

 これやこの、我に逢ふ〈み〉をのがれつつ、年月ふれど、まさりがほなき (〔伊勢物語〕六十二段)

は、「み」に〈実質〉を詠み込んで、スカトロジー歌と睨む。前述の物語研究会合宿で研究発表させていただいた。これの前歌には「み」に対する「から」(出気)が詠まれている。

 去にしへ(屁)の臭ひは−いづら(ダレの?)。桜花。こける(ヒリダシテイル)〈から〉とも−なりにけるかな 〔(同段)〕

 これをスカトロジー歌ではないかと述べて、ひんしゅくを買った。57577を諧謔で読めと教えてくれたのは織田正吉さんのもろもろの書物だった。短歌が言葉からなるとは、言葉遊びの世界だということに等しい。新古今前後の裏通りにも哄笑があふれている。従来、そこが読み取られてこなかったに過ぎない。

 玉の緒よ−絶えなば絶えね。ながらへば、忍ぶることの、よわりもぞ−する (式子内親王

 「忍ぶること」(がまん)が弱りでもしたら、たいへん。何らかの歌謡的雰囲気に包まれて、もの凄くおかしいうたなのだろう。けっしてスカトロジー歌でなく、大まじめな作歌なのはわかるけれども、「がまんしないでトイレへ行きなさい」と言いたくなる。
 スカトロ系の話題が出てきたら座談はおしまい、という、口承文芸にはきびしいルールがある。で、おしまい。」
▽出典: 藤井貞和「短歌のどこがおもしろい!」(『ユリイカ2013年1月臨時増刊号 総特集 百人一首』)


藤井貞和「短歌のどこがおもしろい!」冒頭(p.69)より。
「短歌にはひとふし、必ず「笑える」ところがあるはずだ。
「笑える」といったら不謹慎ながら、おもしろいところのあるのが短歌だと、そこを探求して読む。
どこがおもしろいといえるのだろうと、訝しむ思いのする作歌に出会ったら、作者だけの、だれにも通じないひとりよがりがあるはずだと、それを発見して笑う。
凡庸な技巧なのに苦心している作者を想像すると、読者として気の毒がり、律儀にそれに付き合うことをする。
せっかくの作歌なのだから、読者は対話相手になって、突っ込みを入れる。
短歌には伝統的に問答の要素があって、なぞを仕掛けて遊べるようになっている。歌語りと言って、そのなぞを解き明かしたり、うたをめぐる物語を捏造したりして、よいうたには感心しながら腐〔くさ〕し、へたなうたなら爪弾きして笑う。」
▽出典: 同前(改行は引用者)


▽参考:
▼帯とけの伊勢物語(六十二) - 帯とけの古典文芸 http://blog.goo.ne.jp/87108/e/214550a69f7cfb4f1f969c198e606ebe
▼和歌解説 ★ 恋の和歌〔玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする〕 http://www1.ocn.ne.jp/~montaro/waka/koi.html#1